自分をこの宇宙から消し去りたいとき、「簡単に自殺できるスイッチ」と「自分が生まれなかったことになるスイッチ」があったらどっちを押す? また、その理由は何かをある?
こういう面白いツイートが流れてきて、自分はどうだろうかとちょっと考えてみました。
で、考えた結果、ぼくは「どちらでもよい」という結論になりました。ほんと、コインを投げてどちらを押すか決めて構わない。このふたつはぼくには同じことです。
前者はまぁ、ふつうの自殺ですね。簡単だ、という以外は。
後者は、自分のことを覚えている人が世界にいなくなってしまうわけですね。『魔法少女まどか☆マギカ』の、神まどか誕生後の世界みたいになるわけです。ただその神まどか自身もいないのですが。
死ねば、いままで生きていた世界と没交渉になります。完全に切れるのです。そこで、ぼくのことを覚えている人がいようが、いまいが、ぼくが成した何かが世界に残ろうが、なくなろうが、ぼくは知ることがありません。それが、死ぬってことです。なんで知ることができないかというと、知る主体であるところのぼくがもう存在しないからです。
だから、「簡単に自殺できるスイッチ」と「自分が生まれなかったことになるスイッチ」は完全に等価です。押した瞬間に、ぼくは消え、世界とつながりがなくなるのです。「コインを投げてどちらを押すか決める」どころか、どっちがどっちのスイッチであるのか押す前に知らされる必要すらありません。
でも、「来世や転生があり、今生での記憶が継続する」という世界観をお持ちの方にとっては、ふたつのスイッチは別物でしょうね。もし世界がそういうつくりだったら、ぼくも考えなおさないといけませんが、やっぱりどっちのスイッチでもいいような気もします。自分が生まれなかったことになっても、自分が過ごした時間の記憶を持っているなら(←これは神まどかの状況そのものです)、別にぼくはそれで充分な気がします。
とか言いつつも、じゃあ、いまそのスイッチあるから押せ!と言われたら、ちょっと躊躇しそうですね。スイッチが前者の場合、両親は悲しむだろうし、それに押す前に身の回りの整理はしておきたいw しかし消えてなくなって世界と没交渉になるならそんなのどーでもいいはずなんです。
つまりぼくは、死について、理屈ではこうなるはずだと思ってても感情では納得してない部分がまだ残っている、ということになります。まぁ感情のほうが理性より古くからあるシステムですからね。そいつを誤魔化すのはなかなか難しいわけですよ。つーか誤魔化せたら明日にも死んでしまうのかもしれませんがw