親が悲しむかも知れない、と考えてしまうのはどうなんだろうか。
死んだら無になるはずではないか。だから、ぼくの死後に悲しむ親なんて、もう存在しないぼくは感知できないのだから、どうでもいいはずではないか。
……というふうにはならないんだよな。ぼくの死後にこの国の未来がどうなろうと構わない、ぼくが生きてる間だけもってくれれば充分、とは思えても、親に対してはそう思えない。
ということは、結局ぼくは、死んだら無になるということをうまく信じられていない、ということになってしまってるのではないか。うーむまだ、強度が足りないのか。
この問題については何度も考えている。何度も考えているということは、まだギリギリまで考え抜いていないから立ち戻ってしまう、ということだ。
「死んだら無になる。それはわかってる。でも生きている今の自分が自分の死後を想像してしまい、それに耐えられないのだ」という言い回しはダメな言い回しで、これは要するに「それはわかってる」に「いやお前わかってない」ってツッコミを入れるべきなんです。自分の死後とかっていうのは単に存在しない、それが無ってことなんだから。無を理解していない。
悲しむだろう、ってあたりに間違いがあるのかもしれない。喜ぶかもしれないではないか。あるいはぼくが自殺したことをずっと知らないままかもしれない。それともぼくが自殺しようとしてる同じ時間に事故で死んでしまうかもしれない。そんなふうに、あらゆる可能性を取りうる、ような気がするけどでもほんとはなにもないどれでもない、っていうのが無ってやつではないのか。
あ、なんだかいけそうな(逝けそうな?)気がしてきたw