すべての夢のたび。

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「死ぬのが怖い」とはどういうことか

「死ぬのが怖い」とはどういうことか

「死ぬのが怖い」とはどういうことか

「死ぬのが怖い」とはそもそも心理学的・進化論的・脳科学的・哲学的にどういうことなのか? 「死ぬのが怖い」状態は無宗教者でも論理的に超越できるのか? この本ではまず、「死ぬのが怖い」人に手に取ってもらうことを起爆剤に、最終的には多くの人に「死とは何か」を考えてもらい、逆に生き生きとした「生」を再発見してもらうことを目指します。本書の目標は「現代日本人型の新しい死生観」を身に付けることになります。


何度かこの日記でも取り上げたことのある前野隆司さんの新刊です。もう、そのものズバリすぎるストレートな書名です。何日か前に買ったんですが(Kindle版)、楽しみすぎてまだプロローグしか読んでない。

そのプロローグがまた、分かる人には分かる、ひざポンな書かれっぷりなんですよね。

 では、妻は死ぬのが怖くないのだろうか?
 これも聞いてみた。すると答えは再び僕をいらだたせるものだった。
「自分が死ぬことよりも、自分が死んだあとで子供たちが困り果てているのを想像するほうが怖い」
 いやいやいや。論点は、そこではない
 母性愛に満ちた子供思いの回答はすばらしいし、優しい妻を持ってよかったと思うが、論点は、そこではない。死後に子供たちが困る様子を想像するのはおいておこうではないか。そっちではなく、自分が死んで何もなくなってしまうということ自体の恐怖についてどう考えるか。こっちのことを聞いているのだ。ムキになってそう力説したら、
「じゃあ、あなたは、子供たちが困ることなんか、どうでもいいの!?」
 ときた。おおおおお、そうではないってば。

 この話の教訓は、「人間には、どうやら、自分の死が怖い人と、怖くない人がいるらしい」ということだ。なんと、妻は、死んだあとは何もなくなってしまうという、このなんというか絶対的で世界のすべてを支配するかのような巨大で抗しようもない哲学的大問題を、別に問題と感じていないらしい。


分かる。つまり、分からん人には分からん問いなのです。前野さんは脳や意識に関する本を何冊も書かれてますが、きっかけは要するにこのあたり、自分は死んだらどうなってしまうのかという子供のころからの疑問にあったといいます。分かる。

つーか、意識とは、自分とは、世界とは何か?なーんて考える人たちの、その多くは同じようなルートを通ってこのテのことを考えるようになったんじゃないですかね。ぼくもそうですが。つまり、死の恐怖を理屈によってねじ伏せ受容し超越する、超越したいと、足掻いているわけですね。

 僕が生まれる前の、とてつもなく長い時間と、僕が死んだあとの、同じくとてつもなく長い時間。僕がいないのに、どうして世界は平然と続いていくのか。
 僕から見た世界は僕のためにあるのに、僕という主人公がいなくなったあとで、世界は、誰のために、何のために、続いていくのか。世界に始まりはあったのか、なかったのか。宇宙に果てはあるのか、ないのか。
 そんなことを考えただけで、怖くてしかたなかった。
「自分だけが自分だ」という、圧倒的な孤独。


数日前に似たような記事を書いたような気がする(笑)。みんな同じですよね。世界はカキワリで、周りの人はみんな役者で、ぼくは教育のためにここに放り込まれているんです。という話をむかし「自分もそう考えてた!」って人とチャットで朝までしたこともあったっけ。


そしてこの本のさらに興味ふかいところは、Amazonレビューで★2つになってるところです(笑)。6人レビューして、★5つが1人、★3つが1人、★1つが4人。うはは、ひどいありさまだ。つまりこの本は失敗してるんでしょうね。そりゃしかたない。だって「死ぬのが怖くないことを人に伝える」ってのは本来宗教の役目で、千年二千年かけてまだうまくいってないそれを1冊の本でやろうってんだから、もとから無謀なんですよ。

だが、分かる。そのチャレンジ精神は分かるわけです。だってこの本の場合は「自分の主張が受け入れられる」ことが「自分の死の恐怖を遠ざける」ことに直接的に繋がるわけですから。世界は、こうなんだ。こうなってるはずなんだ。同意してよ。そういうわけです。つまるところぼくがいろいろ書いてるのもそれと同じなので。まぁぼくは既に一線超えちゃった(完全にこっちがわに来てしまった)気がしてるのですけど。

もったいないけどこの週末にでも読もうと思います。たのしみだ。