自分が「差別を受ける」側に回ることに考えが及ばないひと、というのは、極端に想像力が貧困な人か、根拠なく自分の優位を疑わない奢った人間なんだと思う。自分はどう扱われたいか、(それも踏まえて)相手とどういう関係を築きたいか、これは、個々人のポリシーの問題だからな。
— TrinityNYC (@TrinityNYC) August 13, 2013
この手の論法はたびたび目にします。「もし自分がその立場になったらどうすんだ」系。でも、ぼくはこれが常に説得力を持つとは思っていません。
なぜなら、この論法の"if"が、発生する確率が非常に低い、あるいは確率が予想できない、あるいは発生した場合致命的である、といったケースでは、それを端的に無視することが合理的戦略である、ということが考えられるからです。
たとえば、東京に大地震が発生したら、なんて"if"を、東京に住んでる人たちの多くはとりあえず考えないことにしています。また、毎日毎日「交通事故にあったらどうしよう」なんて怯えながら生きてる人も少ないんじゃないかと思う。
そんなわけで、「とりあえず無視し、"if"が発生したら騒ぐ」という戦略が最適なケースはある。と言いますか反原発なんてのがまさにソレでしたよね。事故前から反対していた人を横目で見ていた人は多いと思う。
でもこの戦略は、有効なんだけど、採用していることを言いにくいんですよね。要は「自分さえ良ければそれでいい」と言っているわけなので。バレたら酷い目に合わされそう。だからみな大っぴらにはせず、黙っている。
もうひとつ。税金で公園を作ろうぜーといった時、それは素晴らしいことだみんな協力しようお金出そう、と煽っといて、自分は出さない。それが最も合理的な戦略です。ここで「みんながみんなそう考えたら何も起きないだろ」という反論はどれだけ有効だろうか?
みんながみんなそう考えないように、ぼくらは倫理的訓練を施されているんじゃないかと思う。みなさん真面目なので懸念されているような問題は実際には起きない。だから「みんな」の数が多ければ、抜け駆けはだいたい成功するのです。