すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

冷たい人


御嶽山の噴火で、山頂近くにいた人たちのツイートを見ると、大丈夫ですか、心配しています、無事の下山を祈っています、なんてリプライがいっぱい付いてるわけです。

本気で言ってんのかな、と思う。

ちょっと組み合わせを考えてみました。人には外と内があるので、組み合わせは4つになります。

  1. 言葉では心配を表明するが、実際にも心配している。
  2. 言葉では心配を表明するが、実際には心配していない。
  3. 言葉では心配を表明しないが、実際には心配している。
  4. 言葉では心配を表明しないが、実際にも心配していない。

ぼくは4です。適当に名前を付けましょうか。1は善人、2は偽善者、3は奥床しい人、4は冷たい人。ぼくは冷たい人ですね。

「本気で言ってんのかな」は、みんな偽善者なんじゃねーの?ってうたがいです。まぁ偽善者って言うのはかなり意地悪な言い方です。偽善はなにもしないことに勝ると思うし、ぼくが不幸にあったら声を掛けてもらえるだけでも嬉しいだろうし、ぼくだって偽善かなーと思いつつ寄付をしたりすることはあるわけです。

善人はいいですね。美しい。素晴らしいと思う。でもここに善人スイッチがあって押したら善人になるけど押す?って聞かれたら、多分押さないんですよねぼくは。なんか、善人じゃないほうが、世の中を広く楽しめる、楽しみを享受できる気がするんですよね。ディズニーやジブリで泣けるし、心清きひとたちが眉をひそめるような作品も楽しく見られるわけです。

奥床しい人、って名前は適当ではないかも知れません。電車で席を譲れない人もここに含まれてしまうので。行動するかしないかを付け足して組み合わせを8つにすべきでしたでしょうか。

ぼくも多分被害者に身内(家族から知り合いまでのグラデーションを含む)がいたら善人になると思うんですけど、そうでなければ冷たい人なんですよねー。心は動かされないので奥床しい人ではない。そして偽善者として行動すべき、という気も起きない。でもそもそも、偽善者はいちいち考えて行動してるんだろうか? 声を掛けておくべき、って意識的にやってるんだろうか。居ても立ってもいられずつい声を掛けてしまうんならそれは単なる善人ですよね。

……などといろいろ考えていました。最後に、亡くなられた方のご冥福をお祈りしてこの項を終了いたします。