強いナントカと弱いナントカ、みたいな言い方があって、なんとなく好きなんです。例を挙げると……
強いAIと弱いAIはジョン・サールが作った用語であり、彼は以下のように書いている。
「…強いAIによれば、コンピュータは単なる道具ではなく、正しくプログラムされたコンピュータには精神が宿るとされる」
弱いAIってのは何かに特化したようなソフトのこと。チェスに勝つとか。そして強いAIは意識を持ったそれであると。
弱い人間原理
大数仮説が成立する時に人間が存在している不思議さを、人間の存在による必然と考えたのがロバート・H・ディッケである。ディッケは宇宙の年齢が偶然ではなく、人間の存在によって縛られていることを示した。それによれば、宇宙の年齢は現在のようなある範囲になければならないという。なぜなら、宇宙が若すぎれば、恒星内での核融合によって生成される炭素などの重元素は星間に十分な量存在することができないし、逆に年をとりすぎていれば、主系列星による安定した惑星系はなくなってしまっているからである。このように宇宙の構造を考える時、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を弱い人間原理と呼ぶ。
強い人間原理
ブランドン・カーターはこれをさらに進めて、知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない。よって、宇宙は知的生命体が存在するような構造をしていなければならない。という「強い人間原理」を示した。
宇宙がもし存在すればそこには絶対に知的生命体がいる、ってのが強い人間原理のようですね。弱い方は、今の宇宙は人間がいる宇宙だから条件が偏ってる、本来宇宙はもっといろんな形で有り得るはずだ、って感じなのかな。
この「強い/弱い」の言い方、どうも元は数学から来ているようで。弱い仮定/強い仮定とか、弱い公理/強い公理とか。その意味はシンプルで、もし強い方が成り立つなら弱い方は必然的に成り立つ、逆はそうもと言えない、ってことのようです。なるほど上で挙げたAIや人間原理の例もそうなってますね。
で、最近のISISの事件で取り沙汰される自己責任論ですが、どうも世間様の考えているそれとぼくのこれが異なるようで、ぼくのは「強い自己責任」と言えるんじゃないかって気付きました。
「弱い自己責任」ってのは、まぁよく山で遭難してる人もいますけど、危険と判ってる場所に適当な準備で行ったんだから、もしなんかあっても仕方ないよね、ってやつですね。自業自得とも言う。
「強い自己責任」は、こうです。
ぼくは自己責任教徒です。そもそも誰に頼まれてこの世に生まれてきたわけでもないのにそのままここで生き続けることを自ら選択しているのだから、人生で起こるあらゆることは自己責任であるはずですが。それとも今際の際に「俺のせいじゃない! 俺のせいじゃない!」って念仏唱えながら死ぬんですか?
— みちアキ (@tmichiaki) 2015, 1月 22
この世界におけるすべての人たちのあらゆる行動とその結果は自己責任以外のものではありえません、というものです。いろいろ考えた結果ぼくはここに辿り着くに至ったわけですけど、これもろに仏教って感じですね。でもそう言うなら自業自得も仏教だし、日本人は自己責任の考え方が強いってのもそこから来てるんじゃないか。
あと勘違いしてる人がすっごく多いんだけど、自己責任だからって助けるべきじゃないなんてぜんぜん言ってないんですよ。なぜかそこごっちゃにして攻撃されるんだよな。わざとやってます?