すべての夢のたび。

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殺していい命は存在するか

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia


事件の第一報で「十数人死亡」っての聞いて、どこの国のニュースだ?と思いました。まさか日本だったとは。

この事件では、犯人の過去の言動や衆議院議長宛に書いた手紙などがマスコミを通じて公開され、その思想傾向、「重度障害者は社会に不要である」というそれが広く知られることとなりました。

この件についてあちこちで議論がされているのは好ましいと思っています。不要な人間は存在するのか、というのは今後の世界では避けて通れないテーマだと思うからです。

人権、というものについて考えてみると、実際にはそれはフィクションなので、それを持つ持たないというのは恣意的に決められているわけです。たとえばこの国では胎児というものは他人の意志によって殺す(堕胎する)ことができ、それは罪ではないとされています。日本では受胎後何日めまでかの胎児には人権はないわけです。

人権がなかったものがどこかでそれを持つようになる。同じように、人権があるものがそれを失うポイントもまたどこかにあるはずです。生きている人間が、死に、燃やされて空に還るなり埋められて土に還るなりする、その過程のどこかでそれは人権を失う。

ぼくは、重度障害者の一部は、もう人権を持っていないんじゃないか、と考えています。それはまだ人のかたちをしてはいるけれど、すでに人の心はなくなっているんじゃないかと。脳死した人と同様、回復の見込みがゼロであり、そこに人の心がすでにないなら、その命の行く末は他人に委ねられていいのではないかと思います。

もちろん、今の世の中にはまだそんな合意はありません。ていうか合意があったとしても刃物で刺すのはダメですけどね。ただ、そういう合意がないのは世界にまだ余裕があるように見えるからだと思っています。今後、食料や水の不足、資源の不足、環境の悪化等が進んでいくと、順番というもの、人の命の軽重というものを、もっとはっきりさせなくてはならなくなるでしょう。

欧米では寝たきり老人は存在しないという話を聞いたことがあります。そういう無理矢理な延命はしない、むしろそんなものは虐待だという合意があるらしい。その話を思い出して、欧米では重度障害者についてはどのように考えられているんだろうなと気になりました。

あと思ったんですけど、障害者、とひとくくりにされてますけど、精神障害者と身体障害者は分けて議論しないと話がめんどうになるだけですよね。どうも一部の人たちは意図的にそこ混濁させて、あなただっていつ事故にあって障害者になるかわからないのに、みたいなよくあるつまらないパターンに持ち込もうとしている。重度身体障害者に人権がないなんてさすがにそんなことは言わないです。問題は精神にある。結局いつもの「意識とはなにか」みたいな話に戻ってくるわけですが。