すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

閉鎖するとかしないとか

煩悩是道場 : ブログの閉鎖は自由である

ブログの閉鎖は自由である。
何故ならブログの閉鎖は、そのブロガーにとって、当該のウエブスペースに於ける活動の自らの死を自らの手によって行う事であるからだ。


これはこう読めるのではないかと直感的に思った。

自殺は自由である。
何故なら自殺は、その人間にとって、当該の世界に於ける活動の自らの死を自らの手によって行う事であるからだ。


気づいたが、よく読むと文章がちょっと変な気もする。まぁおいといて、仮説を立ててみる。「ブログの閉鎖に理解を示す人は自殺についてもそうであり、批判的な人は自殺についてもそうである」

というわけで、「煩悩是道場」のエントリをキーワード“自殺”で検索してみたのだけど、ululunさんが自殺について明確な考えを示したと取れるエントリは見つからなかった。残念。(「なぜころ」関係でちらっとはあったけど、自殺そのものが主題ではなかった)


一方で、ululunさんのエントリがリンクしている「日々是自己主張」はどうか。同じくキーワード“自殺”で検索した結果。

日々是自己主張 : 単なる「迷惑」で終わってはいけないけれど

JR横須賀線で起きた飛び込み自殺についてのエントリを発見。

 僕はその大群衆を見ながら、この事故で亡くなった人のことを考えてみた。ひとつの生命が失われたという事実は確かに痛ましく、悲しむべきことである。しかし同時に考えられずにはいられなかった。その一人のために、これだけ大勢の人たちの生活が影響を受けているという事実について。

 たかが40分の生活の乱れと、人一人の生命の重さは、むろん比ぶべくもない。自ら生命を絶たなければならなかった人の心情を慮るべきであることは頭では分かる。しかし、その一人の「選択」のために、多くの人たちが影響を受けたという事実。たかだか何時間か帰宅が遅れたところで、(普通は)生命にかかわるわけではないのも事実だが、人一人の生命についての選択は、何万人という人びとの生活に影響を与えても、なお尊重されるべきものなのだろうか。


うん。Akky氏がブログ閉鎖を批判するときのロジックと確かに似ている、と感じられる。(そしてサンプルを1つ付け加えてよければ、ぼくはブログ閉鎖も自殺も自由でしょと考えている)

つまりは、電脳空間上でのブログやホームページの閉鎖、という出来事は、そこに住んでいる人間にとっては、オフライン世界での「死」という出来事と似た意味を持つのだろうなと(まぁ実際、更新されないなと思ったら死んでました、ということも起きうるわけだし)。そして「死」に対する反応がおおむね二通りあるところも類似している。“迷惑だから”“勝手だから”という「論理的反応」と、“寂しいから”“悲しいから”という「感情的反応」と。


ululunさんのエントリのブクマコメントより。kanimasterさんの「閉鎖・移転を繰り返す人」についてはどうだろう。すぐ思いつくのは「自殺未遂を繰り返す人」だろうか? それとも死んでもすぐ復活するキャラ? そんなのもいたかも。sweetloveさんの「突然削除するのはやめてほしい」はどうだろう。普段からあー死ぬかも、もー死ぬかも、今度死にます、とか言って回ってればOKとか。それもやだなぁ。でも思ったんですけど、知り合いに自殺されてから後悔する人はきっと多いと思う。だったら、好きなブログには閉鎖される前にいっぱいコメントしてあげなさい、ってことじゃないですかね?