すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

間主観性?について?

書くタイミングを逃した。エントリはやっぱり、ある程度考えてみて「よし、行けるかな?」って手応えがあったあたりで書き始めるのがスリリングなのであって(思ってたのと違う結論に落ちたりね)、そこを外してしまうと、自分の中では時間と共に考察が進んでしまい結論が出てしまったりしてなんか終わっちゃった感じになっちゃったりして、いまさら書くの面倒……ってなことになったりするのだ。それがすでに昨日くらいのこと。しかし琴子さんから長いレスもらってるのでスルーは(自分的には)失礼と感じたので、思ってたことを適当にまとめることにする。

読んでない人はこちらを先に読んでおくといいかもしれない。


泣き言メイン(琴子のセンス・オブ・ワンダーな日々) : トラバが来たので追記「科学≠万能:科学の限界について」

問題点1については、科学哲学で言う「因果律」とか因果論という分野の内容と言うことで受け取りました。それだと、解釈の問題ですから実際に物理現象(いわゆる公理系)とは彼我にある関係とも言えます。

決定論とかも因果律の問題になりますが、実証不可能な仮説に留まるから「条件として設定する必要がない」としか言いようがありません(この辺が誤解を生む問題になると予想されます)。


ここが変だと思ったところ。これは、こういうことを言っているように聞こえるのだ。「人間の意識が物理的現実に影響するかどうか(要するに水伝みたいなもの)を実験する必要はない。なぜなら、科学ではそれは実証不可能とされているからである」。つまるところ、「科学の人」が言ってるのはみんなそういうことのような気がする。

これの前のエントリで琴子さんはこう書かれていた。

人間の精神が物理的現実に影響を与えないのを無根拠に信じている訳ではないです。
根拠があります。
今までさんざん行われてきている科学的実験の結果に、実験した人の精神状態で左右されたという実験結果が出ていない。(いわゆる演繹的帰結ってやつですね)


これを読んだときぼくは「え? 帰納的帰結じゃないの……?」と思ったんだった。「今まで行われた実験では実験者の精神状態で結果が左右されることはなかった→従って、人間の意識は物理的現実に影響を与えないと思われる」、これが帰納的帰結ですよね。しかし演繹的帰結というのは「人間の意識は物理的現実に影響を与えない→従って、水の結晶が作られる過程に影響を与えることもない」みたいのを言うんじゃないですか? 大前提ありきなものが。だとしたら、琴子さんは、いろいろ説明をすることなしに「科学では、そう決まってますから」で良かったはず、なんですけどね(だって公理ってそういうものでしょう?)。

というのがぼくの疑問。単なる言い間違いなのか、“本音”が出てしまったのか、こちらの解釈の誤りか。興味はあるけど、まぁいいや。(で、この先は、別に琴子さんが科学者代表というわけでもないので、適当に流してもらえればいいのですが)

でも、「科学では云々」という言い方は、自分にはこういうふうに見えるのだ。

「○○をする必要はありません。なぜなら、聖書の○○書○○章○○節に、そのようなことをする必要はない、とちゃんと書かれているからです」
「あの、でも、うち神道なんで……」


こんな感じ。水伝は科学ではない(ポエム……?)。人間の意識は物理的現実に影響を与える、というところからスタートしているので、「実験は必要ない。なぜなら、“科学では”人間の意識は物理的現実に影響を与えないということになっているからだ」という語法は水伝相手には通らないんである。他の実験不要論もだいたいこういう「科学では」形式だったと思うけれど(科学では条件が明示されてない実験に反証はできない云々)、これは「科学の人」以外には説得力に欠ける言い回しなのです。宗教が違うんなら、もっと常識レベル(例えば宗教なら「どんな宗教でも人を殺してはいけないはずだ」とか)から話を合わせて行かなくてはいけないと思う。

以前ぼくは「一緒に実験したらいいんじゃないか?」って書いたんだけど、もっと簡単な方法があった。「科学の人」が見てる目の前で「水伝の人」に水の結晶を作る実験をやってもらうだけでいいんじゃないかなぁ。いろいろ条件とかうるさいことは言わずに、逆に、こういう「常識」レベルで充分な(結果が出る)んじゃないかという気がする。(もちろんもちろん、琴子さんがそれをする必要はないのですが)

これやっちゃうと科学じゃなくなるのよねぇ。


それは大事なものなのかも知れませんが、でも、「敵」がそこまで迫り来ている状況で、まだ「軍を出すのは法的に問題はないのか」を云々しているように、見えてしまうんですよね(とかいう自分は第三国なんですけど)。水伝の江本氏って「国連本部」で「講演」までやってるんだってみんな知ってるのかなぁ? 学校で水伝を教えるなんてゆゆしきじたいである!とか言ってる場合なんだろーか。(ちなみに解説はこちら

こんなもんかな。コペンハーゲン解釈とか説明していただいたのに触れられなくてすみません。良かったらまた遊んで下さい。


「科学には限界がある。しかし、おそらく間違ってはいないよね」ってのが「科学の人」だと思う。「なるほどそういう考え方もできなくはない。けど、それはあくまでも例えであって、ほんとのところは科学は正しいでしょ?」というふうに、正しさを疑えないようにできている。物理的現実の上に物理学があって、その上にその他の各種学問(やら宗教やら)があるイメージ。けど現実はそうじゃないのです(というのがぼくの世界の見方です)。