すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

本当のほんとう

昨日のエントリへのROYGBさんのブコメに応答してみたいと思います。

ROYGB 「ほんとうの答え」は本当なんだろうかと思った。悟りを得たと思っても、それが空腹や疲労などを原因とする幻覚である場合もあるようなので。


ぼくの言葉遣いはすごく雑ですよね(笑)。ROYGBさんの言わんとするところはぼくには理解できるし、ぼく以外の人にもおそらく理解できるだろうと思います。

しかし「それは本当に"ほんとう"なのか?」という問いを発する時、その人は神の存在を信じているのだと思います。なぜなら、そういう疑いを持つことはどこまでも可能だからです。空腹も疲労もない、自分では極めて正常で平静だと感じているときに「これこそほんとうのことだ」と思っても、「しかしちょっと待て、それは本当に(ry」と言うことはできる。できるけれど、そう"言う"ためには、時と場合でブレたりしない絶対的・客観的な基準がどこかにちゃんと存在していることが前提になります。そして、そんなものは、神以外見分けることはできないでしょう。

まぁほとんどの人は神と渡りを付けることはできないと思うので、「本当のほんとう」があったとしても、自分の「ほんとう」がそれであるかどうかはわからない。もちろん「神なんていないけど本当のほんとうは存在する」ということもあるでしょうけれど、それも同じ、人がそれと知ることはできないものと思います。

では手はないのか?と言うと、そうでもないと考えます。例えば、砂糖をなめて「甘い」と思うとき、その甘さは「ほんとう」であり、かつ「本当のほんとう」ではないでしょうか。「これは甘いけれど、しかし本当に甘いのか?」と言うことはできるけれど、そこに問いとしての意味はない(笑)。現にその甘さを舌に感じているわけですから。頭が痛くて病院に行ったのだけどどこも悪くないと言われたとき、「そっかーこれは本当は痛くないんだ」と言うことはできない。だってそれはほんとうに痛いわけですから、次の病院を探すほかない。こんなふうに、自分にとって疑いを持ち得ない地点というのは("思う我"のように)確かに存在するので、そういったものを足掛かりにしていくことできるのではないかと。

実際には、セミナー中は熱狂状態とかそういう異常なノリの場合も確かにありますけど、「なにが欲しいんですか?」みたいなセッションは静かな中で行われます。そこで得た「ほんとう」を「本当のほんとうなのか?」ともし疑ってしまったら、落ち着いたときにでも後でひとりでもういちど点検してみればいいんじゃないかと思います。実際上それで充分かつそれ以上は難しそうです。

でも禅(や虎眼流)の印可のようなものは、弟子が得たものを師もそれとわかるように見えますけどね。そうでなければ、悟りの系譜はどこかで途切れてしまっていたのかもしれない、ということになる。そこにはなにかはあるのかもしれない。わかるものはわかるんだよ、と言われてお終いの気もしますが。