すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

夢の覚める場所

いま『カオスヘッドノア』(asin:B001IDYN56)というXbox 360のアドベンチャーゲームをやっています。コンシューマーゲームで非エロなんだけど過激描写があるため18禁という、珍しい作品です。マルチエンディングなのですが、実は最初のED見て「うーん、なかなか面白かったな……」といまちょっと止まってしまってる状態だったりしますが。

で、ほんの少しネタバレなんですが、この作品では人間の脳活動を覗いたりコントロールしたり、というネタが使われています。まぁアイデア自体は昔からSFではよくあるものですね。脳内の情報のやりとりは電気信号で行われているので、それを外部から読み取ることもできるし、外から信号を与えて五感や思考内容をいじったりもできる、と。

SFではこれまた頻出するイメージとして「水槽の中にコードがいっぱい繋がれた脳がぷかぷか浮いている」というものがあります。実はわたしたちが外部の世界と思っているものは、すべて五感の代わりとして与えられている信号による幻想であり夢のようなもの。しかし本人/脳はそんなことはつゆ知らず、いまここの世界を本物だと信じきって、走ったり飲んだり食べたり、泣いたり笑ったりしてるという。マトリックス的なあれですね。

実際に脳の中では微弱な電気信号によって情報が伝えられており、サルなどでは脳に細い電極を差し込んで脳細胞を直接刺激し、特定の感覚を生じさせたりするような実検も行われています。人間の場合は脳に電極を差し込む行為には倫理的な問題がありますが、治療を兼ねた実験ということで一部では行われていることもあるようです。

さて、では、このようにして外部から脳をコントロールすることは、技術が進めばいずれはできるようになるのだ、ということで、良いのでしょうか? それを認めてしまって、ほんとうに良いと思いますか?

外部から脳をコントロール可能というアイデアは、「自分たちは"水槽に浮かんだ脳"であるかもしれない」という以上にやっかいな問題をわたしたちにもたらします。つまり、このアイデア自体が、外部からもたらされた、注入された、自ら思いついたかのように誰かによって仕組まれたものであるかも知れない、ということです。わたしたちは「ぼくらはもしかして"水槽に浮かんだ脳"だったりすることもあるのかもね」と考え(させられ)ているコンピュータ、であるかもしれないのです。

脳をコントロールすることは可能、と安易に認めてしまうと、こういう問題が起きてくるのです。コンピュータならまだいい(?)です。わたしたちは自分を人間だと思わされている、ただの歯車や蒸気機関かも知れません。あるいはただの木や石かも。そんなものが意識を持てるはずがない? いえ、そもそも脳だってどうやって意識を生じさせているのか、わからないのですよ。それにですね、「そんなことはあるはずがない」という考え方自体、「そう考えさせられている」だけかもしれないではないですか。あるはずがないというのはただの思い込み、思わされで、実は木や石が意識を持つのはほんとはまるでありきたりのことだったり、するかもしれないではないですか。(そんなわけない? いえ、そう思うこと自体が……)

というふうに、「脳は外からコントロールできる」という思想は、実は極めて危険な考え方なのではないかとぼくは思います。自己言及のループ、その考えそのものをその考えにブチ込むことによって、すべてを壊してしまえる。脳をコントロールできるなら、その時点で「なんでもあり」になってしまうのです。この世の中には何も足場がないことになる。

でも、こういったことは既にサイエンス・フィクションの領域を脱し、脳はコントロールできそうだ、という証拠は"現実に"わたしたちの前に徐々に揃いつつあります(証拠なしでも、もうわたしたちはとっくに"受け入れて"しまっていますけどね)。そして、実際にそうなった時、さてどうなるのでしょうか。何かが起きるのでしょうか。コントロールがずっと前からされていたことに気づく? それとも、「おめでとう」あるいは「おつかれさま」と、誰かに目を覚まされることになるのでしょうか? 

またはここに書かれた一切を「ありえない」と言って拒否することもできますね。それが、夢を見続けることを選択したのか、唯一の現実を生きているだけなのか、確かめる方法はないですが。