「人を殺してはいけない」理由を明確に説明できる奴いんの?:あとろぐ速報
そんな人はいないよ、というのがほぼ間違いない結論なのですが、2012年ももうすぐ終わろうかというこのタイミングで、あらためて現在のぼくの考えを書き置いておこうかと思います。
ごくごく簡単に言うとこうなります。「"人を殺してもいい場合"は確かに存在する。ただし、その判断を行うのは非常に難しい。だから、安全側に倒す意味で、とりあえず"殺すな"と禁止しているのだ」
つまり「人を殺してはいけない」というのは、はっきり言えば、ウソ、です。実際のところは「経験上、殺さないほうが良い結果になる場合が多い」程度です。ここで言う"経験"の主体は人類です。人は、長い時間を掛けて、どうもむやみやたらに殺さないほうがうまくいくようだ、ということを学びつつあるのです。
そもそも「なぜ」と問うのが間違いではないか、という気がします。「なぜ」に対し「それは○○○○だからだ」と答えた場合、必ず「では○○○○でなかったら殺していいのか?」と返すことが可能である故です。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
「それは、自分も人に殺されたくないからだ」
「では、もし自分が人に殺されても構わない人間なら、殺していいのか?」
もしほんとうに人を殺してはいけないのなら、それがウソではない真実なら、それには理由なんかないはずです。単に「殺すな」という定言命法になる。しかし実際には、人を殺していい場合はあるわけです。例えば……
- そいつを殺さないと自分が殺される場合
- そいつがどーしょーもないシリアルキラーで、放置しとくとどんどん人が殺されちゃう場合
- そいつが回復する見込みのない病気や怪我で、生かしておいても誰のためにもならない場合
- トロッコが暴走して5人死んだり1人死んだりする場合
1と、2〜4は少し違います。人も動物なので生存本能があります。死にたくない、生きたいと願う。生命を脅かすものに抗するのは自然な行動です。それが1で、自分ひとりだけの問題。
一方、2〜4には社会が関わってきます。社会ぜんたいを俯瞰して、そいつを殺すことはトータルでプラスかマイナスか。殺したほうがプラスなら、殺して良い。そういう発想です。公共の福祉とかいうやつ?
こう言うと、「障害者とか殺したほうが社会のためなんじゃない?」「生活保護受給者とか(ry」という話が出てきたりします。連中は、存在そのものがマイナスだと。でも、簡単にそうだとも言えないのです。その存在が、どこかの誰かに愛とか勇気とか慰めとかそういう類のものを提供してるかも知れない。それでプラスが勝っているかもしれない。また「もし自分も病気や怪我で働けなくなったら、あんなふうに"処分"されてしまうのだろうか……」と考える人が増加したら、社会にとっては不安の増大によるマイナスのほうが大きくなってしまうかもしれません。
というように、殺して良いかどうかの判断はとても難しいのです。ただ、もう長いこと殺し殺されの歴史を送って来た人類は、殺さないほうがいいことが多いらしいと悟ったのです。なので、殺すなと、とりあえず殺すなと、迷ったら殺すなと、そういうことにしてあるのです。いちいちこういう長ったらしい説明をするのを省くために、ちょっとウソなんだけど手っ取り早く禁止にしてあるのです。
ところで新たな問題があります。上で例にあげた1はいいのです。生存本能は、ある。この前提は疑えません。しかし、2〜4が持っている隠された前提はちょっと怪しい。なぜ社会ぜんたいにプラスにならなくてはいけないのか。「なぜ公共の福祉に叶う行動をしなくてはいけないのか?」 もっと分かりやすく言えば、なぜ人間社会は存続していかなくてはいけないのでしょうか?
個としての人が生存本能を持っているということから、全体としての人間社会が続いていかなくてはいけない、続くべきである、ということは導き出せないだろうなぁ。社会を続けて、その先に何があるのか。続けなくちゃいけない理由はいまのところ分からんのです。だからかな。分からないからこそ、ひとまず続けていくしかない、ってことなんでしょうか?