法務省は26日、宮城吉英死刑囚(56)と浜崎勝次死刑囚(64)=いずれも東京拘置所=の2人の死刑を執行したと発表した。第2次安倍政権発足後の今年2月21日、谷垣禎一法相のもとで3人に執行して以来、2回目。
今日死刑があったそうで、死刑反対派の人たちが死刑に反対していました。世の中にはいろんなものごとがあって、当然そのいろんなものごとに反対する人たちがいます。でもなぜか、どんなものごとであっても、反対する人たちの顔ぶれはいつも同じなんですよね。あることに反対する人たちは別のあることにも反対する。違うデモで同じ顔を見る。ふしぎです。
まぁそれは置いておいて。死刑反対派と賛成派のどちらも満足する方法を考えました。「たったひとつの」とかいうのはあれです。タイトルに入れとくと注目度が上がったりするキーワードみたいなやつなんで、あまり気にしないでください。
ざっと言うとこんな感じです。
国民一人ひとりに死刑に賛成か反対か事前に確認する。賛成派が死刑相当の罪を犯した場合はそのまま死刑にする。反対派が死刑相当の罪を犯した場合は仮釈放なしの無期刑にする。この仮釈放なしの無期刑の囚人を養う費用は死刑反対派のみが負担し、賛成派は払わなくて良い。こういう世界はどうですか?
どうです名案でしょー?
ぼくは死刑賛成派なんですけど、その理由は「生かしておいても無駄じゃない?」ってことに尽きます。社会に不要である人間を寿命まで養う意味がわからない。一方で死刑反対派の人たちは言います。冤罪の可能性を排除できない以上死刑は認められないと。
ぼくは冤罪を許容するんです。多くの死刑判決は、実際に死に値するような罪を犯した人に与えられていると思うんですよね。おそらく日本では大抵の裁判はそこそこまともに行われています。冤罪は社会にとっては許容できる誤差です。冤罪ゼロなんてそんなガチガチな社会を目指すのはコストが高く付きすぎます。
だから、先の案で「死刑賛成派」を選択する人には、「自分が冤罪で死刑判決を受けてもその通り従う」ことが求められます。それが前提です。そして「そんなの受け入れられない」という反対派の人たちが冤罪で死刑となる可能性は完全になくなる。その代わり、社会的に無駄なコストは自分らで負担してよねって、そういう案です。
反対派の人たちから予想される反論で、「そうは言っても実際に自分が冤罪で死刑判決を受けたらどうするんだ。想像できないのか」って類のやつがあります。でもね、逆パターンを知ってるんです。死刑反対派だったんだけど、身内が殺されて賛成派に転じた人がいるんですよねー。そんなもんです。だからこの手の、仮に云々な反論はナシです。
あと、死刑の犯罪抑止効果がどうとか、当人の更生可能性がどうとか、遺族感情がどうとか、そういう話も、まぁ細かいことじゃないかなーと。ぼくの考えはもっとシンプルです。他人を殺しちゃうような人は危ないのでコロしちゃいましょう。ルールは大抵、シンプルなほうがうまく働くもんです。