すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

チェック柄のシャツと自己責任について

http://d.hatena.ne.jp/./four_seasons/20060525/1148492418


先日のfour_seasonsさんへの言及エントリへ、ご本人よりレスをいただきました。それについていくつか思ったことを書く、フリをして自分語りを。

というわけで最低限のファッションというものはもう、本当に些細なことなわけですね。


ぼくが思うに、チェック柄のシャツというのはファッションではないです。記号とかかな? 「その職業の人」でなくても「その職業の服」を着ていればその職業として認知される、みたいなものです。犯人が警官の制服を着ていたとか、油で汚れたツナギを着ていれば工員に見えるとか、動物の刺繍のトレーナーとか、そんなのと同じです。なかにはツナギをオシャレに着こなせるセンスを持った人もいるのでしょうけど、ぼくには無理です。さいきんの世間様はチェック柄を「制服」と見ているので、センスのない自分がわざわざ着ることもない、という感じでしょうか。

そしていらない服はどうするのかというと、ぼくの場合、捨てます。センスがない上に好みも結構変わるので、去年買った服でも今年見ると理解不能なものもある。そういうのは捨てる。たとえばチェック柄の服をオタ服として認知できたら、もう見るだけでいやな気分が想起されるわけです。そしたら捨てた方がよい。べつにまだ着れるし、家の中でなら着てもいいだろう、とか考えてはいけない。それは見るだけでいつまでも何度でもネガティブな気分を呼び起こさせる負の触媒なのです。リサイクルとか廃品回収とかフリマに出せればいいのですが、まぁ燃えるゴミの日に捨てます。エコロジーなんかより自分の精神の健康のほうが大事。拍手をパンパンと2回ぐらい打って、ごめんね、ありがとう!と心の中で唱えて、手を合わせて拝んでからゴミ袋に突っ込む、供養したつもり。だいたいこんなです。(ちなみに服以外でも、こんなふうにどんどん捨てます)

森博嗣がよく言ってることがあって(正確には覚えていないが大筋はあってるはず)、
「人間は常に最善を尽くしている。なぜならば、あらゆる行動は選択の結果だからだ。たとえば講義中に寝ている人は講義よりも睡眠欲を満たすほうが重要だと判断しているのだし、サークルで忙しくて勉強する時間が無いと言っている人は、勉強よりサークルが重要だと思っているのだし、一日中ネットをしてだらだらしている人は、だらだらしているデメリットよりも何かを始めるめんどくささというデメリットのほうが大きいと判断してそうしているからだ。」
僕もこれにはおおむね同感なのです。


ああ、なんだ、と思いました。釈迦に説法だったのかも。ぼくの考え方は基本的にそれです。植物人間か、ベッドに縛り付けられて食べ物を口から押し込まれているのでない限り、人は、生きることを自分で選んでいます。だって誰も何かの負債をもって生まれてきたわけでもない。望まれて生まれた人なんていない。人というものがそもそもそういうものである以上、その人生の中で起こる全てのことは自分の選択の結果です。だから全ての責任も自分で負うものです。郵便ポストが赤いのもぼくの責任です。なぜなら、ぼくは郵便ポストが赤い件についていちどもどこにも文句を訴えたことがないからです。(まぁほんとうは責任なんて負えやしないのですが(って開き直るのもあれなんだけど))

ぼくはだいたいこんなふうな考えです。utsutsuさんが「あなたのような人がモテない現代社会が悪い」と言われたことについて、four_seasonsさんが「そのようなことを言っても全く無駄なのでは……」と返されているのは、その通りだと思う。たとえば歩道に自動車が突っ込んできて、当然自動車が悪いわけですが、「向こうが悪い……」なんて思ってても、避けないと死ぬわけです。悪いとか悪くないとかでなく、現に起きてしまっている問題には対処しなくてはいけない、という話だと考えます。ただ、utsutsuさんのほんとうに言いたいのは「自分を責めすぎてはいけない」ということだろうとは感じます。けれどそれもぼくは、まだ、人のせいにするよりはマシなんじゃないかなぁ、と思う。

色々アドバイスしてくださってるのに結局僕のやる気の問題ですみません。


いえ。そこまでわかってらっしゃるのなら、いいんです。どうせこちらだってブログ上ででああだこうだ言うだけで、それ以上の行動(干渉?)は起こさないわけですし。でもこれを書いてるいま26日午前2時すぎに、four_seasonsさんに彼女ができればいいのに!と思ってるのはほんとうですので(まぁどうせすぐ忘れますが。すみません)。

「愛しなさい」は誤用

asahi.com : 「愛国心」埼玉の50校通知表に 教師「評価できぬ」

 埼玉県教委によると、同県内では25日現在、4市2町の50小学校で、通知表に「愛国心」に関する表現が入った項目が評価の対象になっている。
 同県行田市では、小学校長らによる通知表のモデル案をつくり、「我が国の歴史と政治及び国際社会での日本の役割に関心をもって意欲的に調べ、自国を愛し、世界の平和を願う自覚をもとうとする」という項目を社会の4観点の一つに盛り込んだ。05年度は、全15校中14校がモデル案と同じかほぼ同様の表現を採用した。ABCの3段階で評価することにしている。


アホだ。自分が埼玉の小学生でなくて、埼玉の小学生の親でなくて、埼玉の小学校の教師でなくてよかった、と心から思う。可愛そうに。

「愛する」というのは意思してできることではないのです。ただ自然にこころが動くことであって、他の手段で為すことはできない。自分の意志の力で愛することができるのだったら、離婚調停で家裁に来た夫婦に、裁判所はひとこと「愛せよ!」って勧告を出して終了でしょうよ。塩をなめさせて「甘いと思え」っていうのと変わらない。つまり愛国心うんぬんってのは、今の日本はしょっぱいと国が自ら認めた、ってことですね。じゃなきゃ「甘いと思え」なんて言わないでしょう?

で、お国はいったい何を考えてるんだろう?と思うわけです。バカだから「愛せよ」と命令すれば愛されると思っているのか、それとも、バカだから「愛してる」って口で言って欲しいだけなのか。どっちにせよ、そんなことを口にしたら最後、次には「ワタシのことを愛してるんだったら、コレくらいできるはずよね!」って言い出すに決まってる。

ここで予言しておきます。近いうちにこの国では「子作りに励むこと」が法律で義務化されますね。そしてもうしばらくしたら、「考えていること」にチェックが入るようになります。

 5月24日、株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR)と株式会社ホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパン(HRI)は共同で、あらたなブレイン・マシーン・インターフェイス(BMI)を使って、脳活動を計測することでロボットを操作する基礎技術を開発したと発表し、日本科学未来館で記者会見を行なった。

 脳に電極を埋め込んだり、訓練の必要がないことが特徴。ヒトの脳血流を使って脳機能を計測するMRIを使うため、ヒトの動作からは7秒の時間差が生じるものの、ほぼリアルタイムに近い速度でロボットを動かすことに世界で初めて成功した。


こんなふうになってきてるんで。細かな思考内容までは判らないとしても、考えていることが良いことなのかヨカラヌコトなのかくらいは、いずれは外部から読み取れるようになる。するとまぁ間違いなく、「ゲーム脳」とかが大好きな、自分だけは無謬であると信じて疑わない人たちが飛びつくでしょうね。さぁさぁスキャンにかけろ、と言い出すに違いない。


「愛しなさい」という言い方は日本語として正しくない。つまり「汝の敵を愛せよ」っていうのも不可能表現です!って言っちゃうと怖いので(原典ではどう書かれてるかも知らないし)、2000年前には死んで3日後に甦った人もいたくらいだから、人々は自らの意志の力で愛することもできたのかもしれない、ってことにしておこう。ちなみにさらに話はずれますがオスのイルカは自らの意志の力でペニスを勃起させたり弛緩させたりすることができると言われています。おなかを上に向けてロープをアレに引っかけて泳いで遊んでるイルカの写真を見たことがある(まぁイルカショーではそんなもの見られないでしょうが)。すごいですよね。弟子にしてくれと。「愛しなさい!」「わかりました!」「勃起せよ!!」「ラジャー!!」って、国は少子化対策かなんかの一環としてイルカ研究でもしてはどうか?