すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

結局まだ酔っぱらいモード

…で、さらに微妙に頭痛がするんでまともなエントリを書くのは無理そう。いやいつも別にまともではないので今さらですか。毎日更新を自分に課してる間はアルコールはなるべく控えよう、と思った。

みやきち日記さん経由のアクセスが多い。例の「穴の位置」に関するエントリですが、もう2000くらい飛んで来てるっぽい。みなそういう話が好きなんですね。

で、今日の朝、はてなから携帯に4通一度にTB通知メールが来て。まーたtinycafeか?と思ったら全部劇場管理人の人からでした。さらにさっき追加で1つ来たので昨日のエントリには5つもTBが。(おかげでtinycafeのTBがサイドバーから1つPUSH OUTしましたよ) しかし酔っぱらいなのでまともに反応できません(だからいつも別にまともではないだろうに)。ここがアレかなー、とちょっと思ったところだけ挙げておきます。

人生がはじまる前と、人生が終わった後に、自分が存在し、自分の人生の始まりと終わりを眺めることができるのなら、人生はゲームでありうる。

人生が終わった後も、自分が存在し続け、人生が終わった後に残ったものを数えることができるのなら、人生はゲームであり得る。

しかし、人生がはじまる前は、自分は存在せず、人生が終わった後は、自分は存在しない。

だから、人生が終わった後に残ったものを数えることなんてできない。

と、ある。しかし別のエントリには、

そして、人生をゲームだと見なすとらえ方は、トータルの収支決算に、1よりも小さい係数をかけることです。

だから、人生をゲームだと見なすと、トータルの収支が赤字になりそうな人は、赤字幅が減少させるために、「ほんとは人生は、ゲームなのに、ゲームを楽しむために、それはゲームじゃないと思いこみたいだけでしょ。」と思いたいわけです。

逆に、人生のトータルの収支が大幅な黒字になりそうな人たちは、「人生は、ゲームじゃない。たった一度きりの、圧倒的なリアルなのだ。」と思いこみたいわけです。

と、ある。ここは単に表現の仕方なのかも知れないけど、「トータルの収支」ってのはメタ視点ですよね。俯瞰して見てる。人生の初めから終わりを、終わったあとから見てる。あるいは内側から、終わりの様子を予想して見てるだけなのかもですが。というふうに、「死んだら終わり」と考えていても、実際のところ、「死んでも何かが残るような感じ」を完全に払拭するのは、誰にとってもなかなか難しい。靖国神社とか、どうなのかねぇ、といつも思います。おまえら先祖の霊とかいると本気で思ってんのかと。いねえなら参拝しようがしまいが「奇妙な風習だよね」って笑って済ませればいいじゃないですか。どうなの中国とか。まぁいいか。という自分だってお墓を蹴っとばしたりはできないし。なんでだろう。でも霊とか、いるとしたら物理法則に従うはずですよね。じゃないとこう、地球も公転してるわけで、化けて出たら宇宙空間だった、ってことになりかねない。パッとでたら暗黒。漆黒の闇。遠くに地球がポツンと。それは寂しいだろう。そういうわけで霊というものは姿を現さないでいるときもどういうふうにしてか地球と一緒に宇宙を巡っていることになります。すごい話ずれた。なんだっけ。ええと、つまり人は死ぬ1秒前にトータルで黒だった赤だった、と言いたいがために生きてるわけじゃないだろう、と。まぁ日々決算がベターですかね。寝てる間に土砂崩れで死ぬかも知らんし。理想はイベント毎決算ですが。しかし決算て考え自体がメタっぽいけどまぁ言い回しの話かなぁと思った。


それと、

なぜそうなるのかというと、われわれの情動や直感や無意識は、すべて、教育や文化のような、後天的なソフトウェアによって作られているわけではなく、無制限に書き換え可能なものではないからだ。

情動や直感や無意識を生み出しているのは、億年もの時をかけてチューニングされつづけてきた、我々のニューロン、神経伝達物質、ホルモン、そして、細胞レベルにまで及ぶとてつもなく高度で複雑な分子的構造体だ。それは、我々が考えているほど、我々の自由になるものではない。

情動、直感、無意識、フィーリングはそういったものによって強く支配されている。

頭では俯瞰できても、理屈ではメタ視できても、自分を根本的に規定する情動やフィーリングは、常にベタでしかあり得ないのだから。

と、あり、かつ、

現実の人生においては、「ゲームの展開を楽にする」ものを、人々は追い求める。

リアルな生活においては、人は、苦労なんてしたくないし、できるだけ楽に果実を手に入れようとする。

人が「プレイヤー自身がそれらを見つけ出す醍醐味」を味わおうとするのは、主にゲームの中だけだ。あるいは、いまやっていることを純粋にゲームとして楽しんでいる特殊なケースだけだ。

そして、それこそが、人生がゲームではない証拠なのである。

現実の生活を見渡す限り、苦労するのが好きな人なんて、めったに見かけない。
苦労なんて苦痛でしかないのに、「苦労も楽しいよ」といって、自分をごまかし、自分を慰める人は多いけど。

と、あります。この2つをfromdusktildawnさんの主張だと仮定すると(ブログに書いてあるものが全て本人の主張だなんて思うのは相当ナイーブな思考である)、ハッピーなマトリックス、脳直結のお花畑、コンピュータと脳をつないで誰もが完全に幸福な仮想世界に住めるようになったとしたら、fromdusktildawnさんはそれを拒否する理由はないな、と思ったのですがどうでしょうか。というか人類はそれの実現を目指し、実現したら人類全員がそこに住むべきかと。それは仮想世界、つまりゲームだって言われるでしょうか。なら、依存性のないマイルドな効き目のアップ系ドラッグでもできたらみんな毎日服用するべき、とか。それも「夢見状態」なら、脳の快楽中枢に電極を刺して、気分が落ち込みそうになったらスイッチを入れてインスタントハッピーになるのがいいですね。これはサルの実験でもうやってるからできるはず。人でもやってたっけ? だって結局はなにもかもが脳内の電気信号・化学反応、そしてベタなフィーリングは否定できないのではないですか?


というあたりで寝ます。おやすみなさい。あとそもそもこの世界は本当に基底現実(=シミュレーションではない)なのか?って話もあるんですが。