すべての夢のたび。

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デカルトさんちょっと待って

ルネ・デカルトさんの「方法序説」を読んでいる。自分の考えを突き詰め、ついにかの有名な「我思う故に我有り」に至った経緯と、その立場からの展開が書かれている。

さて、デカルトさんはこの「我思う─」を哲学の第一原理としているわけだが、ちょっと妙ではないだろうか。全てのものを疑い尽くしても、疑う「我」は確かに存在することだけは疑い得ないというのだけど、それを言うために「我」「思う」「故に」なんてコトバを、意味を定義せずに使っちゃっていいのだろうか? 不用心に過ぎないか? デカルトさんの「我思う─」をちゃんと言うならこうなるだろう。「“我”の範囲と“思う”の行為と“故に”の論理が定義済みである故に、『我思う故に我有り』と我思う」 つまり全然第一原理なんかじゃないと。

で、これはへたっぴな翻訳のせいなんじゃないかと疑ってみた。ラテン語なら「コギト・エルゴ・スム」の3単語しかない。これをラテン語→英語かなんかの言語→日本語って訳したので、勝手に主語が補われてるんじゃないのか? すると、どうもほんとにそうらしい。原文は主語がないそうだ。

「思う・故に・有り」、これがほぼ直訳。それでも不満は残る。別に、思わなくったって有るんじゃないか? ただ「有り」でいけないんだろうか。とにかくなんかが有り。まぁ、こんなのが第一原理では、その上に何も構築できないような気もするが。