すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

創作行為は幻想だ

僕は小学生のころに、「俳句は17音」を「50音の17回繰り返しなら、つまり、俳句は有限で、もう全部世の中にあるんじゃん」と理解していた(小学生なので「50の17乗」とは言えなかった)。さらに中学生になって「全ての俳句を出力できるプログラムを書いたら、これから誰かが書く俳句も全部このプログラムの出力に含まれるわけだから、著作権を主張できるのではないか?」と考えていた。

文字数がいくら増えようと同じことだ。「猿がタイプライターでシェイクスピア」ではないが、所詮は順列組み合わせだ。「それは“可能性としては”この世界にもう存在している」 可能性として既存であるものなかから「ふさわしいもの」を選び取っているに過ぎない。新たに創り出されたモノはなにもないのだ。

この考えは、“創作物”がなにであっても適用される。高名な仏師が「わたしは仏像を彫るのではない。木のなかに住んでいらっしゃる仏様を、木くずを払ってお迎えするのだ」と言っていた。これだ。そのモノは存在していて、要求されるのは選択眼だけなのだ。

だから、僕は自らを「観る者」に位置づける。僕は創るためではなく観るためにこの世界にいる。僕の書くもののなかには新しいものはなにもない。それを知っておいて欲しい。全ては、サンプリングとリミックスだ。ここにあるのはただそれだけだ。


……という発想が僕の理性の根底にはある。けれど感情はそれを否定する。「創作行為はある」という。あたりまえだ! ただ僕はきっと、一部のあんまり謙虚じゃないっぽい“クリエイター”の人や、「クリエイトしないなんて信じられない」って言って非クリエイターにやさしくない“クリエイター”の人や、パクリうんぬんでおおさわぎする“クリエイター”の人が、ちょっと「なんだかなぁ」なだけなのだ。

僕にとってなにかをクリエイトする可能性は「終わらせない」ことのなかにしかない。だから書き続けるのです。