すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(3)

 例えば、空海上人と道元禅師は、最も言語に対して対照的でなおかつ深い思索をした人間です。空海上人の「真言」というのは、言語の外にあることも言えてしまう、そしてそれがそのまんま一つの実在になる、ということだと私は思っています。「真言」というのは言葉ではなく実在で、言語の向こう側にあるものを掴んで実在させる。これは言語に対する考え方としては、ものすごく極端で、下手すると、初めに言葉ありきの世界の考え方。
 対して禅は、そこから先は言わないという断念の力なんです。ギリギリのところまで言えば、反動としての抵抗感を感じる。この抵抗感で断念する。そして押し続ける。言える限り言う。あることを言うと、またそのうち言葉を自分で裏切って次の言葉を使う。「不立文字」と言うのは、文字を立て続ける力のことだと私は思っています。密教はあえてそこを破って、実在としての言語というところに踏み込むわけです。


35-36ページより引用。(1)(2)の流れとはちょっと変えてみる。

こういう見解(けんげ、とは読まない)がスッと出てくるところ、このお坊さん、えらいお勉強してはるわ!(←失礼)と思う。茂木さんの著書も何冊か読まれてるみたいですし。あなどれない(←失礼)。

ここ読むと、禅ってヴィトゲ……っぽいですねとかいう感想が出た。「語り得ぬことは―」ですね。まぁ沈黙しないで言い方を変えてガンガン語るってのが禅だというわけですけど。でも真言もなんかヤバいですね、魅力的。これは言霊ですね。しゃべると、そうなっちゃうんですよね。うん。

ところで南さんって、お坊さんになるまえは、おさむらいだったんじゃないのか、って感じですね。いろいろとたたずまいが。