すべての夢のたび。

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偏見と共に生きる2

昨日の続き。ぼくのTwitterでの「首相はアスペルガーかなんかか。」というつぶやきに対し「根拠は?偏見じゃないかそりゃ?」というreplyが来て、さてそれはほんとうに偏見だったのだろうか?という話。昨日のエントリから一日経って、なんとなく構造が見えてきました。


「障害も個性である」という見方がありますが、ぼくはそれは「善なる嘘」だと思います。ぼくはアスペルガーの人を、精神面の一部において健常者より劣ったものと考えています。たとえばあなたが生まれ変わるとして、健常者かアスペルガーかを選択できると言われたら、後者を選ぶでしょうか? もし障害が個性であるならば、選ばれてもよいはずです。

つまり、ぼくという「『障害も個性である』という善なる嘘を拒否する人物」においては、「アスペルガーは健常者より劣っている」というのは、偏見ではなくて単なる事実です。ぼく自身はそう考えているということです。

そしてここで「首相はアスペルガーかなんかか。」に対する「根拠は?偏見じゃないかそりゃ?」というreplyについて考えてみます。やはりこの発言は、どこかが少しズレているのです。


彼はぼくの発言に同意していません。でも、もし彼が「障害も個性である」と考える人物であったら、replyは「根拠は?」だけになるはずではないでしょうか? 「私は首相がアスペルガーだと判断できるだけの根拠を持っておらず貴方の発言には同意しかねるので根拠を示せ」ということです。

でも彼は続けて「偏見じゃないかそりゃ?」と言っています。ここで「偏見」という言葉が出てくるということは、彼はぼくの発言から「首相を貶める意図を汲み取った」ということです。「客観的根拠の無さ」と「非好意的判断」、2つが揃ってはじめてそれは「偏見」になるのですから。

しかし「首相はアスペルガー」を非好意的判断、首相に対する悪意と感じるためには、「アスペルガー=よくないもの」である必要があるわけです。もしもアスペルガーが個性=価値中立的なものであるなら、「首相はアスペ」は好悪を含まないただの判断となり、偏見だという反応は出てこないでしょう。

要するに、ぼくの"偏見"を正そうとする、「アスペルガーはよくないものではない」としたい人物自身が、アスペルガーをよくないものと考えている。つまりそれは、他ならぬ彼自身も偏見を持っていて、しかもそれに気付いていない、ということなのではないのでしょうか?


もしかしたら続くかも。