すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

生きるべき人が生きるために

麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。


あっちゃー、という感じ。こんなにマスコミに突っ込まれやすそうなスキのあることを言っちゃって、と思いました。結局撤回か。人質事件がなかったらもっとずっと大騒ぎになってそうですよね。

でもこれはそもそも「失言」なんだろうか? ちょっと考えてみたのです。

失言とは「不都合なことや間違ったことをうっかり言ってしまうこと」です。たとえばぼくはご存知の通り韓国ヘイト超ヘイトな人ですが、本人まぁ、サベツは良くないなぁってのは解ってるわけです。これをリアルでポロッと言ってしまったらそれは失言になるのだと思う。

でも麻生副総理はもしかしたら、本来の意味での確信犯なのではないだろうか、と考えるのです。つまり「さっさと死ねるようにしてもらう」ことが正しいと本人が信じている場合、この発言は失言ではないのではないでしょうか?

今回、例によってマスコミお得意の「発言の一部だけをクローズアップ」が行われています。「さっさと死ねるように」は、本当は「死にたいと思っている人がさっさと死ねるように」であり、さらに実際には「生きるべき人が生きるために、死にたいと思っている人がさっさと死ねるように」なわけです。

北欧なんかだと、割とこれに近い考え方が社会に浸透している、と聞いたことがあります。全ての人が生きるための土地もお金も資源もない。それならば、というわけです。言わば姥捨てです。だからあっち方面は安楽死とかに寛大な面があるのだと思う。

麻生副総理の心の中までは知る由もありませんが、日本でも誰かが言わなくてはいけないことをただ言ったのだと、それだけなのかも知れません。マスコミにバッシングされるだろうことまで想定済みだったかはわかりませんが。少なくとも、今回で、種は蒔かれた感じがします。こういう考え方もあるのだと。

命は無条件に何よりも尊く、あらゆる全てを犠牲にしても「ただ生きること」を優先すべきである。そういった思想が疑われる季節にそろそろ日本も入ってきたんじゃないかと、個人的にはそれを喜ばしく思います。無駄な延命やら、自殺を願う人への無責任な言動は、慎まれるべきなのです。