すべての夢のたび。

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「命を大切にする教育」はなぜ胡散臭いのか?



「命を大切にする教育」というのがピンとこなかったんですが、小田嶋隆さんのツイートを見てやっとわかった。そういうことか。

「命を大切にする教育」の反対は、「命を大切にしない教育」であり「命を粗末にする教育」であり、つまりそれって「国を大切にする教育」ってわけですね。

要は「命を大切にする教育」って左寄りの人のものだ。ぼくは右寄りだからな。ピンとこないわけです。べつにお国のために死んでもいいとか考えてるわけじゃないけど、「ぼくが生き残ること」と「この国が続いていくこと」がラノベ的に天秤にかけられる状況があったとしたら、後者を選ぶなぁ。

以前に左と右の違いを考えてたときに至ったぼくなりの結論。左は「命より大切なものはないと考える人たち」、右は「命より大切なものはあると考える人たち」と言えるんじゃないかと。左寄りの人たちがデモするテーマのあれやこれ、根っこにこの思想があると考えると、ああそうかーって思いません? あの人たち「もし自分がそうなったらどうするんだ」みたいな言い回しよく使うじゃないですか。


それで掲題の「『命を大切にする教育』はなぜ胡散臭いのか?」なんですが、それは「命」っていうのは結局どこまで行っても「"この私の"命」でしかないからなんですよ。だからさっきの思想はこう書き換えないといけない。

  • 左は「この私の命より大切なものはないと考える人たち」
  • 右は「この私の命より大切なものはあると考える人たち」

「命を大切にする教育」ってのは実は「"この私の"命を大切にする教育」。そら女子高生は人を殺すわ。他人を殺すような人間にしたくなかったら、お前の命より大切なものはあるんだよ、って教えないとだめでしょう? でもそれって右の思想に近づくんだよな。

どっちも大切だ、っていうのがほんとはいいんでしょうけど、でもいまの世の中ってその真逆になってる気もします。