すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

強引な車椅子


タイトルだけ見て、まさかそんなことする会社があるとは思わなくって、ちょっとしたすれ違いとかちょっとした責任逃れとかそういうのが積み重なった結果なのかな?って考えてました。でも詳細が出てきたら全然様子が違ってたっていう。



この車椅子の人は、元からそういう感じの人だったらしい。過去にも何度も同じようなことをしている。強引なやり方で障害者への配慮を求めていく。そこに朝日新聞が乗っかって、サベツヨクナイデスネーみたいな記事を書いたって構図っぽいです。まったく、朝日の記事はそのまま読んじゃいかんやつの割合が高すぎるでしょう。

いろいろ考えたのですが、最終的にはぼくは、この車椅子の人のやり方は、まぁ認めてしまうのです。というのは表現の自由だからです。他人に迷惑を掛ける表現の自由だって表現の自由です。いったん表現した後でどうにかなったりどうにかされたりするだけで、表現すること自体は誰にも止められないってことですね。

ここで、こういうやり方がよくない理由を挙げて並べることもできるのですが、というかいろいろ考えていたのですが、突き詰めると、ぼくはこういうやり方が嫌いなのだ、と思い当たりました。嫌いなのだけど、単純に嫌いだって言うのじゃダメな気がして、この車椅子の人のやり方がよくない理由を探しているだけみたいです。ということがわかって個人的にはすっきりしました。やり方を認めているのと嫌いなのは別に矛盾しません。


昔は、障害者はもっと顧みられてなかったんじゃないかと思います。先人(先障害者)が戦って、今のような権利を手に入れてきたわけです。その価値を、この車椅子の人は、毀損している気がします。そもそも人権含め権利というものは、みんなで「それがあることにしましょう」と合意したフィクションでしかないわけなんですけど、なかには、はじめからそれが存在し、それが存在することをやっとみんなが認めたと、そう考える人たちもいるようです。そういう人たちは、いったん手に入れたものは失われないと思ってるのかもしれません(ぼくの想像です)けど、ぼくはそれは容易に失われるんじゃないかと思ってます。だってもともと、ないものだし。


配慮は求めていくものじゃなくて、余裕がある側が自らするものであり、「お客様は神様だろ!」って自分で言う客みたいなものはどうなんでしょうか。この国みんな余裕なくなってきてますし、反感を買いやすいんじゃないですかね。とか、まぁ、こう書くことがぼくの「嫌い」への態度なんですけど。嫌いだから止めさせたいだけなのにそれっぽい理由付けをしてしまう。