すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

一夜明けて、

というか、一昼暮れて、昨日のエントリはけっこうウケたようで、アクセス・反響・ブックマーク、いっぱいいただいてます。どうもありがとうございます。いちばん驚いたのは、とある方よりブクマ経由で300ポイントもいただいてしまったことです。「おもしろかった」とひとこと感想付きで。ありがとうございました。さきほど外の自販機で缶コーヒーで祝杯を挙げてきました。曇ってて星は見えませんでしたけど。

自分にとっての正しい答え、が見つかればいいんじゃないかと思うんです。今回ぼくが辿りついた答えは、ぼくにとっては非常に「腑に落ちる」ものだった。できればこの答えが、誰かの問いに対して参考になってくれればいいのですが。

思えば件の質問から、えーと、まる7ヶ月ですか。まぁその間ずっとこの問いについて考え続けていたわけでもなく、メイドリフレに行ったりとか、いろいろしてましたけど、ついに、問いそのものの消失に近い形で、ぼくに取ってはほぼ決着しました。やりましたよid:anotherさん。あとid:cosmo_sophyさんには深く感謝しています。ありがとうございました。でもid:laisoさんはこういう系はあまりお好きでないようなので、laisoさんにブクマされるエントリもしっかり書いていければいいなぁと思ってます。


社会と倫理の関係は、なんか生物と遺伝子の関係に似てるのかも、と思った。いわゆる利己的遺伝子っていうアレですね。生物の形や遺伝子の構成は変われども遺伝の仕組み自体は不変であるように、社会や倫理規範は変われど「規範を疑うな」という一点は変化しない、と。社会は倫理の乗り物ですか?みたいな。倫理が主、みたいな。というわけで今後は「なぜ社会は維持されねばならないのか?」を考えていきましょうか?(そこまで解体しちゃうのかよ)


いただいたコメントやトラックバックは全て目を通しています。個々にレスは、うーん、今回ちょっと多いので、しないかも。するかも。

まだやります?

なんだか「なぜ人(略)いけないのか?」トラックバックセンターと化していますね。べつに構いませんけれど。フィアンセ戦車さんRinRin王国さんのおかげで昨日よりアクセス多いです。徳保さんにまで捕捉されてるし

大島保彦先生は1998年の千葉大学の講義「倫理学A」で、「人は人を殺していい」と説明されました。ただし、殺されたくない人々には、殺されないよう努力する自由がある、とも。

私はこの説明が最も簡明かつ確実なものと考えていまして、以降、ずっと援用させていただいてます。


「趣味のWebデザイン」のこの記事を引用させていただこうかと思っていたのですが、先にこちらを見つけられてしまいました。ちなみに、徳保さんにお薦めいただいた3冊の本は、全て所有しております(頭を抱える徳保さんの姿が見えそうです)。どころか、id:zakincoさんにお薦めいただいた『これがニーチェだ』も(先日きささんにもお薦めいただきましたが)持ってますし、akiさんに薦められている『タオ自然学』も読んでます。「なぜ人は他人に本を薦めたがるのか?」も、面白い問いなのかも。というかむしろわたしがなにか薦めてみた方がよいのですか?(『最果てのイマ』でもやったらどうか←本じゃない)


で、きささんに「どこか戻っているような気がします」と言われている部分、このあたりかな?と思うので、ちょっと書いてみます。


将棋に例えてみます。将棋のトーナメント戦が行われている最中、対局中のふたりのうちのひとりが叫びます。

「なぜ、二歩を指してはいけないのかッ!?」


もうひとりが答えます。

「おまえはあほですか。二歩がいけないのは、将棋はそういうルールだからに決まってるだろう。そりゃ、どうして二歩がいかんということに決まったのか?とか、もし二歩を許したらどんな戦略が有り得るだろうかとか、おまえがひとりで考えるぶんにはぜんぜん勝手だけどさ、俺はそんなことはどうでもいいね。ルールはルールだからなぁ。まぁまったく関心ないかっつったら嘘かもしらんけど、つーかいまトーナメントの最中な訳じゃん。二歩さ、指しても別にいいけどさ、指したらおまえ負けよ?」


こんな感じですか。「“倫理規範を疑ってはいけない”という倫理規範が存在する」ということに思い至ったときに、「なぜ人を殺してはいけないのか?」は「そういうルールだから」ということが、以前からなんどもなんどもなんども他の人から指摘されてきたことが、ついにやっときちんと理解できたわけです(バカだと思ってもらって構いません)。人を殺しては「いけない」のはそういう「ルール」だから。ルールの一つであって、特別ななにかではない。それが解ったので、興味がなくなったのです。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われた時に、多くの人が返す答えである、「社会の維持のため」「自分も殺されたくないから」「デメリットの方が大きいから」などなどは、「ルールが決まった経緯」や「やったら予想される事態」や「わたしがやらない理由」などなどであって、その中には重要なものやそれほどでもないものもあるでしょうけれど、実際には「なぜ“いけない”のか?」という問い方をされた場合の正しい答えは、常に「それがルールだから」でしか有り得ないのだ、と思います。ということ。どうでしょうか? あってます?


はつねさんから「倫理と倫理規範を混同していませんか?」という指摘を受けています。それも以前になんども言われたのですが、たとえばYahoo!辞書で「倫理」を引くと、第一義が

人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「―にもとる行為」「―感」「政治―」


で、第二義が

「倫理学」の略。


となっています。正しいけれど一部の人しか使っていない用法より、現に多くの人に通用している用法で書きたかったのです。徳保さんの言う「当為」も、わたしそんなコトバただしく使えませんし、一般にもあまり耳にしません。そういう言葉を使わなければ書けないこともあるのでしょうけれど、わたしはできるだけ多くの人に伝わるように書いてみたいのです。