イチニクス遊覧日記 : 罪悪感について/未整理
ichinicsさんとごにょごにょ続けてる罪悪感シリーズ(なのか?)。どうしてかまだあんまり考えが進まないのでした。
先日のエントリで、ぼくは、罪悪感を感じる背景には「自分は良い人である、という認識」があると言いました。あえて「認識」と書いたのは、それはあくまで本人の認識であって実際とは異なる場合もある、ということを言いたかったからです。そこをichinicsさんは、自分は良い人ではないとちゃんと知っていて、しかし良い人になりたいという夢を諦めきれない場合もあるのではないか、という。そうかもしれないですね。しかしとりあえず(性格の悪さから)疑っておく。それはほんとうにそう思っているのだろうか。毎度毎度罪悪感を感じる(=良い人になりたいと願う自分に気づかされる)というのは、逆に言うと良い人になりたいと願うだけで、なるための行動はなにも伴ってない、という状態が延々継続しているのではないか? 善人ワナビーというか。それは果たして「願っている」と言えるんだろうか?とか言うともう言葉遊びになってきちゃいそうですね。
まとまらないので、アイデアだけ書いておきます。
たとえばぼくが、被災しました。で、この視点から世界を見る。まず、ぼくの被災を知らないので、助けてくれない人。これは当然で、仕方ない。そして、ぼくの被災を知り、助けてくれる人。これはたいへん、たいへんありがたい。さて問題は、ぼくの被災を知り、助けてくれない人です。まず、物理的に助けられない人(お金がないとか)は、仕方ないといえるでしょう。では、助けることが可能、しかし、助けてくれない人、がいたとします。このとき、ぼくはこの人にどういう感情を抱くでしょう(抱く「べき」でしょう?)。 また、このタイプが2人いて、1人は「ぼくの被災を知り、助けることが可能だけど、助けない。そのことに罪悪感を感じる」、もう1人は「ぼくの被災を知り、助けることが可能だけど、助けない。そのことを何とも思わない」だったとします。このときぼくから見てこの2人にはどういった差があるでしょう。どういう違いを感じるでしょう(感じる「べき」でしょう?)。
もひとつ。たとえばichinicsさんはよくライブに行ったり映画を見たり小説や漫画を読んだりされています。そして、ichinicsさんは、世界に悲惨のあることを知っています。このとき、後者が前者に影響を及ぼすでしょうか? つまり、ライブや映画で本来得られるはずの感動が、アフリカに飢餓があるせいで減少していると感じるでしょうか? 減少する、というケースもあると思います。家族や友人が病気になったり事故に遭ったりしていては、おとおちライブも楽しめやしないでしょう。というか、それどころではなく家族・友人の元へ駆けつけるのではないでしょうか。しかし、そうはしない場合、そして大半はそうはしない場合なのではないかと思いますが、そういう、自分への影響がゼロである「悲惨」、心が動かず従って行動にも移らない程度の「悲惨」の場合においては、人はあえて罪悪感を感じようとしなくてもいいんじゃないかなぁと思うんですが、どうでしょう?