すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

パンもケーキもございませんが

まず、「痛み」について。ウィトゲンシュタインは「私は自分が痛みを感じていることを知っている」という文章は無意味だ、というふうに考えていたようです(よく知りませんが)。というのは、「私は自分が痛みを感じていることを知らない」ということは、端的に言ってありえないからです。それは、「私は痛みを感じていない」、痛くはない、という事態にほかならない。つまり、一人称による経験の表明は検証不要/不可能であり、そのまま「そうである」と受け止めるほかない。最初の文で言うなら、ただ「私は痛みを感じている」だけでよいのです。そういうことはありますよね。たとえば、確かに頭が痛くて痛くてしょうがないのに、医者に行っても「どこも悪いところはありません」と言われるとか。しかし痛いものは痛いのであって、医者は「悪いところがないのだから痛くはないはずです」とは言えないでしょう。

では、「愛」について。ぼくは、愛の場合も痛みの場合と変わらないのではないか?と思うのです。とにもかくにもあなたがこの文章をいま読んでいるという現実の背後には、なんらかの愛が存在したという事実があるのではないかとは思うのですが(人間の赤ん坊はひなたに放り出しておくだけで大人になったりはしませんからね)、もしあなたが「私は愛を感じていない」「私は愛されていない」と仰るなら、そうですか、と言うほかはない。そのことを否定できはしない。「あなたは愛されていることを知らないのだ」という言い方は可能に見えるけれど、これは「与える側はとにかく存在する(が、受け取められてはいない)」ということの表現か、「この状況に置かれれば、多くの人の場合は愛を感じることができると私は思うのだけど、あなたの場合はそうではないようだ」ということの不正確な表現でしょうね。

ただ、「わたしは(一度も)愛されたことがない」という言い回しには、ちょっと、え?と思うことがあるのです。なぜなら、(一度も)愛されたことがないのなら「愛」を知らないはずなので、厳密には「そのような状態になったことがない」とは言えないはずだからです。まぁ、「愛されている」人の様子を見て、愛とはこんなふうなものであろう、と推測はできるでしょうけれど、それはもしかしたら違うものであった、ということも考えられる。というか、こういうケースはそれなりにあるんじゃないかなーと思ってたりもします。「愛されたことがない」と感じている人には思いもよらないものが、実は愛であったりする、ということはありえるのではないか。

とはいえ、「痛み」同様、それが最終的には自分にしか解らないものである以上は、自分の力でなんとかするしかないでしょうね。最初の医者でだめなら、次の医者、その次の医者、もしかしたらカウンセラー? お祓い? とにかく手を尽くして、問題が解決するまで自分でやり続けるしかないよなぁ、って思います。ああ、でも、そんなこと言われなくてもわかってる、って言われそうだなぁ。どうにもありきたりな結論ですみません。


参考:このへん