すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

脳内へ退却しますか?

昨日のエントリに対してfromdusktildawnさんからいただいたコメントの中に、あまり見慣れないキーワードがあったんでした。

このブログの読者層には申し訳ないけど、今後も人類の歴史を動かしていくのは、現実において具体的な力をもち、現実において具体的な勝利を勝ち取り、それゆえ、現実における具体的なものごとを肯定し、具体的なものを求めていく人たち。

「誰もが完全に幸福になれるような仮想現実を構築できるほどの凄まじいコンピューティングパワーとバイオテクノロジーとナノテクノロジーを手に入れられる」のは、現実において、具体的な力を求めようとする人たちであって、たぶん、このブログの読者層とは、異質の人種。
このブログの読者層は、そういう現実世界における具体的な力はあまりもたないから、その人たちが望むような方向には、世の中を動かせない。だから、望むような世の中は、訪れない。


それは、「このブログの読者層」という言葉。このブログは誰が読んでいるのか、というのはぼくもずっと気になっていて、しかし一部を除いては姿が見えないなぁ、と手探りでエントリを書いている部分があるのです。が、fromdusktildawnさんのこの捉え方はどうだろう。正しいのか? 実態に近いのか?(一応、ぼくの感覚では、世の中の大半の人は現実世界を改変するほどの力は持っていない、と感じられるので、多少表現を変える必要がある気はしますが、仰りたいことは解ります)

さて、fromdusktildawnさんの言うようにこのブログの読者がそういう層だとすると、ならばこのブログの作者は本田透か、と思ったんでした。「もはや現実の女に用はない。真実の愛を求め、俺たちは二次元に旅立った」という『電波男』のコピー。これなのか。具体的な幸福が手に入れられないから、そうでない、脳内を改変するだけで辿りつける幸福、のようなものを求め、あなたはここを見に来ているのか? なるほど。たしかにぼくは、世界を変えるより自分を変えた方が楽だし早い、と考える傾向が強い、というよりそれが真だ、と思っている。個別対処、例えばわーわーうるさい人がいっぱいいたとしたら、一人一人に「静かにして」と注意して歩くより、耳栓をすればいいや、と考える。脳に入る直前で情報を都合良くねじ曲げるのが最も効率的だろう、と思うタイプだ。

ぼくは本田透氏はあまり好きではないんですね。理由は簡単で、二次元の女性より現実の女性が好きだからです。二次元には二次元の良さがあるので単純には比較できませんが、どちらか選べと言われたら迷うまでもない。それは否定しにくい。『バックラッシュ!』の宮台真司氏の語り部分より引用します。(P66)

「現実に向けて乗り出せない」のでなく「ツマラナイからあえて退却する」のだとして、現実をスッパリ見切った潔きあきらめがあるのか、本来ならば現実が欲しいのに仕方なく虚構に甘んじるという慚愧に堪えぬ思いがあるのかが、問題になります。私は、トラウマ&ルサンチマンが消えることはないと思う。根拠は、「萌えフィギュア」やそれを構成する「萌え要素」がアイコンだからです。いかにデフォルメされても指示対象が現実界にあるんですね。


やはり、二次元は現実のモデル、現実あってこそ、であることは否めないと思う。いやそうではない、とは言えないでしょう。ならなぜ「二次元の“女性”」なのか、(二次元でも三次元でもいいけど)モグラじゃいけないのか、ということになりますからね(というかなぜモグラなのか。いやなんとなく)。ですが、「幸福」の場合においては、ここが多分、ちょっと本田透氏の場合と異なる。脳内幸福は具体的な幸福やらなにかやらを模したものではないからです。女性の場合は、まぁ好みはあるにせよ、なんとなくこう、グッド、いやあまりグッドではないよ、という判断がつけやすい(ごめんなさい)。しかし何がその人にとって幸福と感じられるのかは、けっこうばらつきがある(あるいは、「大きな物語」が崩壊したため、ばらつきが出てきている)のではないかなーと思う。そして幸福の場合は、本人が実際に幸福を感じているのならなかなか外部からは否定しにくい。(外部から否定されて揺らぐくらいなら真の幸福ではないのだ、と定義しておく←ずるい)

しかし本田氏好かぬなー、と思っていたのに、自分がソレ、同じようなことをやっていたのだったとしたら、まーさーにー、「鏡の法則」、現実は自分のほんとうを映し出す鏡、人の欠点が気になるなら自分にもそれがあるのだ、ってアレですね。まいったなとちょっと思いました。とはいえ戦略を変更したりはしませんが。実際はもうすこしズレてると思うし。そしてなんだかいっぱい稼いでるらしくそのうえアマゾンで購入可能な単著さえも持っているという噂のfromdusktildawnさんが「現実において、具体的な力を求めようとする人たち」の側なのか?と言うと、それも少しズレてるのだろうと思う。まぁこれもぼくの感覚ですが、そういう具体的ななんやらを求める人たちは、具体的ななんやらを求めない人たちに、わざわざ干渉しないんじゃないかと思うんですよね。でもfromdusktildawnさんは7/15のコメント欄でこう書いていた。

なので、僕が気になるのは、本当に自分の味わった最高価値に魅せられて、それを味わわないことを不幸で惨めだと理屈抜きに感じるという、あの感情。
「好きな仕事をしてる人はいいんですけど。」で、ほんとにいいのだろうか?


やさしいなぁ、と思った。なぜならぼくは、別にいいんじゃないの、とほっておくことができるからです。fromdusktildawnさんは以前のコメントでも将来は学校を創りたいとか仰ってましたし、ほっとけない人なのだろうと思う。あとfromdusktildawnさんの具体的具体的うんぬんというのは、ニーチェだ、と感じました。ぼくの中にルサンチマンが見えるのでしょうか。自分には感じられないほどうまく隠蔽されてるのかなぁ。