すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

人と親しくなりたくない訳

が、なんとなく解った。win-win関係では、手を抜いた方が勝ってしまうからだ。ずっと協調状態をkeepしておくのがめんどくさいのね。そして、あ、裏切った、と思われたくないんだと思う。だから初めから親しく接することを選ばないようにしていると。どうもそういうことらしいです。


追記:×年間ほど同居してたわけだけど、その間に彼女と24時間以上離れていたことって、たぶん2-3回しかない。その反動もありそう。

今日も賢しいコドモがいくよ

なぜこの人は「なぜころ」ネタで延々書き続けられるのか。そろそろ飽きてる人もいるだろうからやたらにブクマしてはいけませんよ? あとブクマコメントで「ブクマするなと言ってさせるメソッド」とか言うのも禁止。


「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うコドモに「答えてやるもんか!」と返すオトナの人たちは、どうも、“物事には唯一の正しい答えがあるとコドモは考えていて、それを教えろと要求されている”ように感じている様子だ。まぁ待って、そこまで純真ではない。コドモと言ったって本当の子供ではないのだし、オトナの言うことをそのまま鵜呑みにしたりはしない。ちゃんと自分で考える。ただ考えるためのとっかかりになるネタがあったら教えて?って思ってるだけなんですけど。

ぼくは「知識」と「知恵」を分けて考えている。これはぼくの勝手な定義なのだけど、簡単に言うと、「知識」は「他人の知恵」で、「知恵」は「自分のものになった知識」だ。たとえば、「木をこすり合わせると摩擦熱で火が付く」なんてのは、自分にとっては「知識」に分類される。そんなことをやったことはないので、それが可能であるとは知っていても、最初のうちはまず火は付かないだろう。いざってときにはそれでなんとか、というわけにはいかないだろう。しかし実際に火が付くまで幾度かそれを繰り返せば、なんとなくやり方は飲み込めてくるはず。そうやってはじめて「木をこすり合わせると摩擦熱で火が付く」という知識は知恵に変わる。

「なぜころ」も似たようなものだ。いろいろなアイデアを教えてもらって、まぁこれは実際「ちょっと殺してみる」わけにもいかない(捕まる)ので、考える。なんかピンとこないなぁとか、これはいいセンいってるかも、とか、考える。考えて考えて考え続けるといつか、あ、そうか、と自分なりに納得できる。腑に落ちるときがやって来る。そうしてやっと「なぜころ」が自分のものになる。

だからそこで「答えてやるもんか!」じゃなくて、正しい答えをくれと言ってるのではないので、オトナであるアナタ個人はどう考えているのか参考までに教えて欲しい、とコドモは言っているのだ、と思う。

しかしここでまた問題があったりする。「なぜ人を殺してはいけないのか?」は実は「生きる意味とは何か?」という別の大きな問いにけっこう密接に絡んでいる。だもんで、下手な応答をすると、そのオトナのペラい人生観みたいのが透けて見えてしまうんだな。これは大変危険だ。そう言うけどさ、でもやってないじゃん、とすかさずコドモにツッコまれる恐れもある。それどころか答え方によっては仲間のオトナたちにまで笑われて見下されかねない。といったリスクもあるのでまぁ、そんなの自分で考えろ、それしかねえよ、と返しておくのがどうであれ無難なところではあるのでしょう。

自分で考えろ、というオトナたちのうちどれだけが、本当に自分だけの答えを得るまで考え抜いたことがあるのだろう。かつてコドモだったころ、同じように「なぜころ」について考えていたのだろうか。しかし、そういう経験がもしあるのなら、いままさに「そこ」にいる、その状態にあるコドモに、そうそう冷たくはできないのではないかなぁと思うのだけど。いやそれとも、賢しいコドモだったかつて、を思い出させられるからそうなるんだろうか?