エレコム株式会社(本社:大阪市中央区、取締役社長:葉田順治)は、ACコンセントタップと同じ形状にすることで、USBコネクタの抜き差しを容易にした新発想のUSB2.0ハブ「これハブ」6シリーズを10月中旬より新発売します。
ちょっと見、「あ、これいいかも」って思ったんですが、使用例の写真を見ると、「タコ足配線の醜さをあなたのPCにも」になっているような気がする。
エレコム株式会社(本社:大阪市中央区、取締役社長:葉田順治)は、ACコンセントタップと同じ形状にすることで、USBコネクタの抜き差しを容易にした新発想のUSB2.0ハブ「これハブ」6シリーズを10月中旬より新発売します。
ちょっと見、「あ、これいいかも」って思ったんですが、使用例の写真を見ると、「タコ足配線の醜さをあなたのPCにも」になっているような気がする。
以下ではいくつかの例題について、「原則」から考えてみる。
例題:死ぬ死ぬ詐欺
一個人から見た場合、人の命は平等ではない。もちろん、自分に近い命が優先する。では、両親が、「あらゆる犠牲を払ってでも、わが子の命を救いたい」と考えていたら、どうだろうか。わが子を救うためなら詐欺に近い集金活動をし、誹りを受けることになっても一向に構わない、と考えているとしたら。
両親のほんとうの考えを知るのは「できないこと」である(わたし、および多くの個人は、手間暇払って自分で両親の所まで行ってインタビューすることなどは考えないだろう)。ここでは仮に詐欺だとしてみる。人を騙すのは「やってはいけないこと」であり、つまり「できること」である。人を騙すのを止めさせることも「できること」である。「できること」同志がぶつかり合った場合、単純に、力が強いほうが勝つ。「募金してもいいや」と思うくらいのはした金が騙し取られた程度では、自分なら、具体的行動に移すほどの怒りのエネルギーは出ないだろう。ネットで愚痴るくらいがせいぜいか。
というか募金なんかしてないし。自分に被害があったわけではない。別に、両親が覚悟を持ってやってるんなら、いいんじゃないのか。まぁ、覚悟なんてあってもなくても、責任を取らされる時には取らされるのだけれど。いずれにせよ、自分からは遠い命の話だ。
結論:いいんじゃないですか?
例題:無断リンク
リンクは「できること」だ。URLが存在する限り、リンクはできる。「リンクするな」と書かれていようが「断ってからリンクしろ」と書かれていようが、ともかくリンクはできる。このことに間違いはない。
では、嫌がっている相手にリンクすること、についてはどうか。しかし「嫌がっているのに無理矢理リンクする」のも「マナーに反してリンクする」のも「できること」には違いない。一方、リンクを「できないこと」にする方法も現に存在する。SNSを利用する、そもそもブログを開設しない、などである。リンクされたくないなら物理的手段を講じるほかないのだ。このことを知らないなら馬鹿であるし(「馬鹿だからリンクしてもよい」ということにはならないが、馬鹿にリンクするのは「できること」だ)、物理的手段しかないと知っていてなおそうしないのなら、「行動結果から判断して」、リンクされてもいいと考えていると判断するほかない。少なくとも、SNSをやったりブログをやめたりするよりは、リンクされることはイヤではないと感じているということだ。
結論:SNSにするかブログをやめるか、リンクする相手が諦めるまでしつこく主張・粘着するか(主張・粘着は「できること」なので、「できること」同志のぶつかり合いに持ち込め)、または呪いを掛けろ(呪いが「できること」なのかそうでないのかは、自分は知らないが)。
例題:禁煙地帯でタバコを吸っている人が腹立たしいんですが
禁煙地帯でタバコを吸う人に注意するのは「できること」である。言わずもがなだが、禁煙地帯でタバコを吸うのも「できること」だ。「できること」同志なので、ぶつかり合わなければ不戦敗だ。できることをやらないでぐちぐち文句を言うのはいかがなものか?
しかし、実はぐちぐち文句を言ってもいいのだ。なぜならぐちぐち文句を言うのもまた「できること」だからだ。文句には2つの効能がある。1つは、「とりあえずその場をやり過ごすことができる」こと。これにより、当面の精神的均衡を保つことができる。問題の解決は遅れることになるが、ある種の問題は時間が経つと勝手に解消してしまったりもする。もう1つは、「他人と問題を分かち合う」ことだ。他力本願である。
結論:自分の不甲斐なさに絶望しろ。または陰で文句を言え。
例題:歴史問題
過去にほんとうは何があったのかを知ることは「できないこと」である。1万年生きている人がいたところで、結局は「その人が言うことはほんとうなのか?」という話になる。どんな歴史的遺物が存在しようがそこからできるのは推測だけだし、そもそもほとんどの人は一次ソースに当たることすらできない(いや、できるが、やらない)。しかし/そして、もっともらしく「ああであった」「こうであった」と触れ回ることはもちろん「できること」だ。
結論:単純に声の大きい方が勝つので、日本はもっと本気になった方が良い。
……というふうに、最近の自分は、なにかモメゴトのようなもの・もやもやするものを目にしても、こういった類の自動対応メソッドが起動してしまって、記事にする前に(脳内で)解決しちゃうんですね。基本は、「自分がその問題に対してできることがあるのにやらないのなら文句を言っても仕方ないだろう」とか、「そんな倫理レイヤーの話を倫理を超越してる人にしても仕方ないだろう」とか、そういったふうなので、エントリにするまで熱が持たないんですよ。
自分の「ものの考え方」の基本線はだいたいこんなところにあります。人に説明するにはまだなんか粗っぽいですが。