すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

エヴァ×能

 名作アニメ「機動戦士ガンダム」が講談に、「新世紀エヴァンゲリオン」が能になった。ガンダムなどモビルスーツ同士の戦闘が合戦の修羅場読みになり、クローン兵器であるエヴァに取り込まれた母の魂が鬼女の嘆きを発し、と意外な“シンクロ”を見せる。新旧の表現の融合から、ニュータイプの日本文化が生まれるのか?


吹いた。

それより凄いのが、記事中で「ガイナックスのHP」のURLを全角文字で記載し、なおかつそこからリンクが貼られていることだ。どういう意味なんだ???

幸福とはなにか?

幸福とは、「現在の自分が幸福であると知っている状態」のことです。それは、外部から規定されるものではありません。なぜなら、「あの人は幸福であるはずなのに、自分ではそれを知らなかった」ということは、有り得ないからです。

他人から見てどれほど「幸福に違いない」と思われるような環境にいたところで、本人がそう感じていないのならば、そこに意味はありません。そのような状況はただ単に「幸福ではない」という、それだけのことです。マッチ売りの少女の死に顔に微笑みがあったのなら、彼女は幸福のうちに死んだのであり、そこで「幸福ではなかった」という発言を行うことは、彼女に対して失礼であるばかりか、自分が幸福のなんたるかについてまったく知らないことを露呈してしまっていることになるのです(彼女の人生ぜんたいについて「不幸だった」という発言は有り得るかもしれませんが)。

ですから、「幸福とはなにか?」と問われたとき、その問いが「〈わたしの〉幸福とはなにか?」を意味するものであれば、それに答えることはできません。それは問うた本人以外は知り得ないものであり、他人が教えることは決してできない。そういうものなのです。ただひとつ言えるのは、「そのような問いを発する人間は現在幸福ではない」ということです。実際に自分が幸福であるならば、自分の幸福とはなにかを知っているわけで、こういった問いを発する必要はないはずですから。

「幸福とはなにか?」と問う人にそれについて教えるのは、生まれつき目の見えない人に「光とはなにか?」を教えるようなものです。このようなものである、という程度は言えるかも知れませんが、ほんとうのところは、自分が経験してみる以外にそれを知る方法はないのです。

結婚と幸福

タイトルは適当。p_shirokumaさんのブログに「これから式場の下見に行ってきますが」というエントリが上がり、おー、と思っていたのですが、その中で「幸せ」についていろいろ語られていて、ふーむ、と自分でも考えているうちになんとなくまとまってきたので、↓のエントリを書きました。ほとんど関係ない内容になっていますが。

あ、おめでとうございます(遅)。自分が気になるのは、p_shirokumaさんはお相手の方と、ブログでやってるような議論をするんだろうか、というあたりですね。するのかな。しないのかな。ぼくは奥さんとはこのブログでときどき書いているような話(なぜころみたいなのとか)は、一度も話したことはありませんでした。彼女がいまここを見てもぼくだとは気づかないんじゃないだろうか。

↓のエントリでは、幸福は人それぞれー、みたいなこと書いてますけど、それでも、多くの人がわりとうまくいってるらしいやりかたというのはあって(たとえば結婚とか)、それを試してみる、というのは充分に有効な戦略だとは思います(もちろんもちろんp_shirokumaさんにおかれましてはもっと遥かに深く熟慮に熟慮を重ねた末の選択、なのでしょうけど)。幸か不幸か(不幸か)、ぼくの幸福はそこにはなかったみたいなのですが。ああでも、すごく楽しかったですけどね、結婚生活は。と言えるほどには回復しているし遠くもなっている。ちなみにp_shirokumaさんのエントリのブクマコメントでFTTHさんが「結婚しない人じゃないっけ、と一瞬思ったがそれみちアキ氏だった件」と書かれてますが、ぼくは結婚しない人じゃなくて結婚できない人です。日本では重婚は認められてはいませんので。喪中の人ですら法律上は結婚は可能なのにぼくは可能性ゼロだ。なんかすげー。

で、もちろんいまのぼくは幸福です。まぁそういう機会はないと思いますが、もしこれを読んでいる人がぼくに会うことがあったたなら「幸福か?」と尋ねてみればわかります。なんの躊躇もなく「はい」と答えるでしょうし、本人的に特に疑念もなくふつうに言ってるだろうことはたぶん目にすれば感じられると思います。だってそうだもんな。


「幸福」は面白いテーマなのでまたいずれなんか書くかも。ごめんなさいね幸福で。しかし↓のエントリはちょっと隙があった。「“幸福”的状態を知らない」のと「幸福という言葉を知らない」のは分けないとだめかな。↓のは前者についての話。後者については、たとえば物語でも、「あ、自分っていま、幸福なんだ」と気づくシーン、ありますよね。そういうふうに、状態は知っててもそれをなんと言うのかしらない、ということは有り得る。私的言語(は不可能??)の話になってくるのかな。