すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「難しいことはボクが考えるから、キミらは社会を維持してね。ボクのために!」

なぜころフォローその2。


なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うてはいけないのか?”という例のエントリについて、批判的なコメントや言及をけっこういただきました。その中のいくつかは「人を殺してはいけないのは当然である。そんなことも解らないのか?」というタイプの批判です。しかしこれはおかしい。件のエントリは「ルールを疑ってはいけない理由」について書いたものであって、読み返してみればわかると思いますが、「人を殺してはいけない理由」についてはまったく話題にしていないからです。

なぜ、触れてもいないことについて持ち出されて語られるのか? 以前のわたしなら、これは「誤読の結果、的を外したコメントになっているんだろうなぁ」と退けていただろうと思うのですが、どうもそうじゃないらしい、ということへの気づきも、あのエントリ中では語っています。もういちどおさらいしてみます。


「あたりまえ」を疑うことができない人には2種類あります。ひとつは、判断停止タイプ。もうひとつは、疑う機能を初めから持っていないタイプです。そして、倫理規範についての「あたりまえ」は、後者のタイプ、それを初めから疑えない人々が社会では多数を占める、ということです。なぜか? わかりません。ニワトリとタマゴのようなものです。倫理規範を疑えない人々が多数だったから社会が安定したのか、社会が安定してきたから人々が倫理規範を疑わなくなり、やがて疑えなくなったのか。ただ、どういうわけかわからないけれど、この社会は現にそうなってしまっている、ということです。

ポイントは、「疑えない」というところです。「疑わない」ではないのです。疑うこともできるけどそれをしない、ではなく、最初から、自分たちを規定しているメタレベルのルールの存在が見えないのです。「なぜ倫理規範を守らなくてはいけないのか?」という語りは、そういう人たちには理解できないのです。なぜなら、そういう人たちはメタレベルについて問う機能を削がれているからです(それが「あたりまえ」という言葉で表現される)。だから“なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うてはいけないのか?”という文を見たときに、それがなにか不穏な内容を表現していることは感知できるし止めさせたいが、メタが存在しないのでベタの言葉で抗するしかない。自分たちの持てる言葉での怒りや不安や恐れのギリギリの表現が「殺してはいけないに決まってる!」という(外した)コメントとして現れるのだろうと考えました。こちらがそういうところまで酌んであげなくちゃいけないのだろうと思います(といっても、やめるわけでもないのですが)。


そんなふうで、先日進藤さんからフォローいただいたように、たしかに以前はわたしは「みんな、あたまをつかわないなんてもったいないなぁ」と考えていたのですけれど、最近は、どうもちがうようだ、というふうに変わったのです。なぜか、そもそも、原理的にそういう話ができない人が大半だ、と理解したのです。タイムマシンで過去に戻ったとき歴史に反する行動を取ることはできない、みたいな話にちょっと似てる気がする。どういうわけかすでに「社会が存在し維持されている」という事実がある以上、必然的にその社会の大半は「なぜ社会は維持されているのか?」などという問いを発せない人々で構成されていなければならないのです。


すこし前にいただいたコメントで、こういうものがありました

君は君の命を所有している気になってるかもしれないが、君(個体)はたとえていえば、人体の細胞のひとつでしかないと思う。君の人生自体に特別大きな意味はないよ、それより命をまわしてくことに励んだほうがいい。


この例えで言えば、「社会の大半を占める、疑えない人々」は、「心臓の細胞」とか「胃壁の細胞」とか「手足の筋肉の細胞」とか、なんでしょうね。わたしはなにかというとたぶん、脳の中にあるといわれている「なにやってんだかよくわからない細胞」のひとつ、なのだろうと思います。アイツなにやってんだ!ムカツク!なら、足を動かして医者に行く、くらいはできるのかもしれない。心臓や胃の働きを止めるわけにもいかないですからね。