すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

自己責任じゃないならなんだってんだ

「派遣村に流れ着いたのは自己責任だろ」というようなエントリを書いたりすると、「そうではない」という人たちがあちこちから現れます。ぼくは相変わらず「自己責任」の反対に当たることばがなんなのかわからないのですが、ここでは仮に、「『派遣村に流れ着いたような人たちに対して“自己責任だ”と発言する人たち』を批判する人たち」(ややこしい)を、オマエと呼ぶことにします。


さて、自己責任じゃないとしたらなんなんだろう、ということで、とりあえず3つ考えてみました。

  1. 社会のせい
  2. 天災とかの類
  3. 運命

たぶんオマエは2や3とは考えないだろうと思います。オマエはそれを社会構造が原因だとか、そういういふうに捉えているのだろうと思う。

しかし、オマエだって社会の構成員だろう? ならば、あの人たちが派遣村に流れ着いたのは、オマエのせいでもあるんだよ。自己責任論を採らないならば、即ちオマエもそれに責任を負わなくてはいけないことになるんだが、このことにちょっと無自覚すぎやしないかい?

……とかって、自己責任論の人たちを叩くオマエの態度があまりにも「慎みに欠ける」ものなので、ぼくは考えてしまうんですよ。その、「まるで今までに罪を犯したことのない人のような素晴らしい石の投げっぷり」を見ると、オマエ自身社会の一員であり派遣切りに責任があることをすっかり忘れてるんじゃないだろうかなーって思ってしまう。

それとも「自分は政治家でもないし、役人でもないし、市の職員でもない一般市民なので、たぶん責任の大きさは“1/日本の人口”くらいで、要するに無視できるほど小さい」ってことなんでしょうかね。うーんこれはありそうかも?


ぼくは、「社会」って、2つの意味で使われるときがあるんじゃないかなって思うんです。ひとつは、いわゆるふつうの本来の「社会」。もうひとつは「自分を含まない社会」(“世界”ってことばもそうですね)、それについて語るために自分を特権的に外側に置いた「社会」です。2つ目は自己言及的になっていますが、この2つ目の意味の「社会」に独立したことばが割り当てられていないこと、1つ目の意味で語るべきところで無自覚的に2つ目の意味で語ってしまうことが、オマエの慎みのなさの原因のひとつであるような気がします。そのようにして、「自己責任ではない!」と叫ぶことによって、オマエもまた同様に責任を逃れようとしているのではないのか?と。


ところで自己責任論を採らないなら、自己責任論者が社会に蔓延することもまたオマエの責任でもあるわけですが……。