すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「いのちだいじに」教はてごわい

いいわけよりはじまる

ぼくが「何かについて」のエントリを書く動機は、自分の中のもにゃもにゃしたよく解らないものを考えることでまとめてみよう、という部分が大きい。なので、書き上がった時点である程度ケリが付いてしまい、考えはまた別の「何か」に向かってしまう。熱を維持できないのです。まぁでも、即応答、だと無駄に熱くなりがちだったりするし、時間おいて冷めてから振り返って書くのもいいかなと。

今まで使ってなかった小見出しのスタイルシートをいじった。この文章では無駄に多用したいと思います。なんかかっこいいなぁと思ってたんですよね。

ぼくの「ブクマされにいく」文章は、普段のぼくの考えより幾分「強く」「派手に」「過激に」なるように意識して書かれています。そのほうが遠くまで飛んで刺さりますから。それと「明らかに狂っている」よりは「境目ギリギリ」くらいを狙ってコントロールして書いています。例えば“ニセ科学”の人たちが書くものだって、そのほうが面白いでしょう? でもまぁ、これは人によってはぜんぜんアウト、「明らか」寄りじゃねえ?って感じもあるでしょうけど、ぼくの考える「ギリギリ」はあの辺なのです。あと、書いている途中で気付いてしまった「不利なこと」は、あえて書かないということもします。そのほうが文章の面白みが出るとぼくが判断すればそうする。と、そういうものだと理解した上でお読みいただければと思うのだけど、そんなものは単なるこちらの事情に過ぎませんし、「そういうものだからと言って何でも書いていい訳じゃないだろう」という批判も当然あるでしょうね。


以下、いただいた反応を見て、ぼくが思ったことなどを書きます。特に議論をしたいわけではないので、これについて答えろ!と言われても、そうはしません(答えた方が面白いと思えばそうします)。観点は、ひたすら、ぼくが今後もいろいろものを考えていく上でその意見や視点や思想は有用だろうか、ということのみです。

魂の落としどころ

trivialさんからのTBは、まぁおいておきます。

goldheadさんからのTB。「魂の落としどころがどっかにあるはずなんだ、たぶん」。いいエントリタイトルですね。そんでもって、中身ですが。まず、読み物として面白い。そしていくらかの点でぼくとは意見の相違がありますが、それは小さい。この文章の口調をぼく風味に直したら、ぼくの書いたものですと言ってそのまま通用しそうです。

ただ、そこでぼくは、思想を(ほぼ)同じにする人がいた、と言って喜んではならないのだと思う。勇気づけられて浮かれて図に乗ってはならない。仲良くしたいとか思ってはならない。そういうのは、ぼくの感覚を鈍らせることになるでしょう。それに「同じ」では役に立たない。同じ方向を向いてるけど微妙に違う、みたいな感じでないと、進んでいく上で新しい視点がもたらされません。……等々、一人で勝手に失礼な物言いをしてますが、気になさらないでいただければ。

スローターハウスに住むもの

sk-44さんからのTB。こちらはぼくの論に対する反論です(見ればわかる)。まぁ「エホバの側に立つ」はもちろん釣りタイトルなんで、そこを云々されてもこちらに応答する言葉の用意がないのですが、そういったタイトルを使うことで非難を受ける可能性は織り込み済みで、しかし得る効果を考えて使っているということです。

資格?

が、だからこそ、当該の輸血拒否問題に対するみちアキさんの「私はエホバの証人の側に立つ」というスタンスに私はダメを出す。貴殿にはまったく立つ筋合も筋道も資格もないと。

資格がない、という指摘はぼく相手には有効ではありません。資格があろうがなかろうが書けるよ、ということをぼくは知っているからです。そして実際にその通りに行動します。だからここは、sk-44さんは「資格がない」という穏やかな言葉を使っていらっしゃいますが、ほんとうは、あのようなものを書くのは止めろ、と仰りたいのではないかと想像します。

「医療関係者に喧嘩売ってるに等しい」という指摘

これについては結果的にその通りです。もし仮に主治医の人が「医療で人命を救うのが医者の仕事であり使命なのであって、何人たりともそれに文句は言わせねえ」と言ったなら、ぼくは何も言い返せないな、ということには気付いていました(そして医療関係者の方の多くがそういう気概で仕事をされていることと考えています。たとえば戦争が起き、自分の担当した兵士が治癒し、その結果ふたたび彼が戦場に赴くことになって命を失うとする。しかし、そうであっても治療を行うのが医者の使命に違いない、そう思います)。が、その気付いた弱みを語り、さらにそれについての言い訳を語ると、主張が弱まり面白みが薄まる、と考えて省いたものです(それによって誰かが傷つくかも知れないということも、繰り返しますが織り込み済みでそうしているということです)。実際には、もしこの現場で親権停止が間に合わずに1歳児が危機的状況に陥ったとしたら、ためらわずに輸血は行われただろうと、ぼくは考えています。

「意志>人命」?

意志が人命に先立つとぼくが考えているのだろう、という指摘については、ぼくはその部分を言葉にして考えたことがないのでわかりません。そうなのかもしれません。……いや、違うな。この部分はsk-44さんはぼくを誤解している。あとで触れるかもしれません。

ぼくは1歳児の意志(?)は問題にしていません。ぼくが気にしているのは、元のエントリにも書いていますが、では両親の意志はどうなるのか、ということです。ぼくがあのエントリを書いた頃、はてブを見ていて下のエントリが目に止まりました。

腐男子じゃないけど、ゲイじゃない : 不当なルールを守る義理はないので「ルールなんだから当然」は全然当然じゃないだろう、当然。

マイノリティみずからによる主張。こういうのは、内容の是非によらず否定しにくい。ジェンダーという微妙で扱いにくい(と書くことすら危うい)問題であることもあるでしょう。しかしエホバの証人はあっさり否定されるんだな。まず、カルト(と言われているがぼくは違うと思っている)だから。そして人命絡みだから。そして主張を代弁しているのがその資格すらないみちアキであるというところが大きな問題でしょう。けれど、自分たちがその主張を「取り合うまでもない」と考えているからと言って、ガン無視して輸血をしてしまっていいんだろうか、ということをぼくは言っているのです。両親側は輸血をしないことが正しいと考え、止めてくれと言っているのですから。

まぁ、輸血はしていいんだと思いますよ。「正しい」「間違い」という言葉は使いたくないので避けますが、輸血拒否は馬鹿げている、とぼくも思う。輸血はしていい。でもその時、こちらは誰かの意志を無視して踏みにじっているのだよ、ということに、意識的であってほしいと、それを忘れるなと、そう考えているのです(ここも重要なので繰り返しますが、「あいつらの言うことは明らかにおかしいから無視していい」では駄目なんですよ)。そしてエホバの証人は慎ましやかなのでそんなこと言わないだろうからぼくがお節介をした、ということです。

中断

うわー、sk-44さんへの応答だけで長くなりすぎてる! いっぺん切ります。ご飯食べに出かけてきます。

再開

3時間ほど外をうろうろして帰ってきました。おかげで、再度熱を持ちつつあったものがすっかりまた冷めてしまいました。まぁぼちぼち続きを書こうと思います。

「いのちだいじに」教のてごわさ

このあたりから続けましょうか。タイトルにもしたし。このエントリでぼくが言おうと考えている重要な2つのことのうちの1つです。先に記したsk-44さんへの応答の最後のほうの話が、まったく通じない人がいるのです。それを仮に「いのちだいじに」教の信者ということにしておきます。「人命ノ尊厳ハ神聖ニシテ絶対デアリ、何人タリトモコレヲ侵スベカラズ」と信じている人たちです。実際には日本では死刑や安楽死や堕胎という形で微妙にほころびはあるのですが、そのわずかな例外を除けば絶対、という感じ。「信じている」と書きましたが、彼ら/彼女らにはこれは大々々前提なので、そもそも意識にも上らないため話には出てきません。ぼくも当然その前提を共有しているはずだ、というところから話が始まってしまいます。

そういう人たちには、「人命が最優先ではない」という価値観の存在は、考えることができないのです。端的に「間違っている」と言うか、「可能性としては考えられるけど、しかしあり得ない」と言うか、その程度の差はあるかもしれませんが。自分たちの価値観が唯一の世界であり、そうでない世界は「ない」か「誤っている」と考えている。しかし、ぼくは歴史には詳しくないのですが、日本においてすら「人命は絶対」という価値観が成立したのは最近になってのことじゃないのですか? 戦時中は特攻隊などもあったし、もっともっと以前には「姥捨て」や「間引き」、子供を売り飛ばすこと(ちょっと違う?)は普通に「あった」のではないですか?(「姥捨ては『無かった』」とか言われると続かないのですが) でも、「いのちだいじに」教信者は「それは当時の人間が誤っていたのであって現在が正しい」と言うのでしょう。けれど、当時の価値観においてはそれらは「正しい」ことであったのです(と言ってもこれも通じないんだろうなーと思いつつ進めます)。

と書いているうちにも

元のエントリのほうに新たにコメントをいただきまして(「通りすがり」さん)、そしてその方もやっぱり「いのちだいじに」教なんでした。ああいう「世界に失礼」なエントリに対して丁寧な言葉を選んでコメントをいただいていることにはほんとうに頭が下がるのですが(しかし「もろみの灯」は誤記かと思ったら2回書かれていた…)。ただしここで、異なった可能性が有り得ます。goldheadさんのエントリから引きます。

 俺は、そこんところについて、「そりゃあ言うまでもないぜ」っていう、そういうのはあんまり好きじゃない。疑ってみて、考えてみて、感じてみて、「お前さんはそう言うが、それでもやっぱりその子供は救われるべきなんだ」って、そうじゃなきゃ嘘だぜって気がする。この世を論じようとするならば、論外なんてねえんだって。そうでなくては、むしろ壁になっている教団に、「われわれ」の壁でぶつかるだけのような気がする。お互い卵は壊れる。

これですね。エホバの証人を「論外」として退けるのではなく、そちらの立場にも自分を置いて検討してみる(非常に困難でしょうが)。そして、その上で、他の世界の存在を認めた上で、新たにこちらを選び直す。これならば、いいんじゃないかとは思える。同じ「いのちだいじに」教信者であっても、「生まれながらの、疑うことを知らない」信者と、「各地を放浪修行して戻ってきた」信者の違いがそこにはあるでしょう。もちろんそれで問題が解決するわけでは全然なく、他の世界との戦いが行われるわけですが、少なくとも相手の存在を認めてはいる。それは礼儀ではないのでしょうか。人命最優先もいいけれど、それを主張するんなら他人の存在を空気のように無視することもしちゃいけないんじゃないの?と思うわけですよ。まぁここまで言っても通じない人には通じないんですけどね。

長すぎだろJK

ということでそろそろ一度〆ますか。

ではどうであればよかったのか。思うに、「1)主治医側とエホバの証人側が徹底的に、徹底的に話し合い、その間になんだかよく解らないけど奇跡が起きて子供が完治してしまう」というのが、もっとも感動を呼ぶシナリオなんじゃないかと思います(笑)。その次は、似てるけど、「2)話し合っているうちに子供が死んでしまう」ですね。ぼくには、「3)強引な輸血の結果子供が助かる」は2より悪く見えるし、「4)輸血拒否を受け入れて子供が死ぬ」も実は2より駄目なんじゃないかという気がしてきました。要するに「お互い納得する」というシナリオはここにはないわけで、ほんとは、エホバの証人は輸血拒否をするってことは前々から解っているんだから、問題が起きる前に話し合いなりなんなりをしておくべきだった、というのがベターだったのでしょう。でも今回はもう遅いので、次に揉める前になんか決めたほうがいいんじゃないかとは思います。そしてそれは「うちに入院する以上は絶対言うことを聞いてもらうぞ!絶対にだ!」でも別にいいんじゃないでしょうか(そしたらエホバの証人側は、はじめから病院に連れていかなくなっちゃったり、するかもですけどね)。

いったんここでおしまい。続きは別エントリにします。