すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

世界は大丈夫だ

歓楽叶わぬ納骨堂庭園 : 世界に許された存在

許せないのは己自身。


自分のことを許せない。いちばん最後まで許せない存在として残るのは自分自身だ。それはこういうことだ。「こんなはずではなかった」「私はもっとうまくやれるはずだった」 理想が高く、美意識も高く、妥協が嫌いで厳格なのだ。それが、ミスを犯した自分自身を許せない、という意識につながっている。

かつてのぼくもそうだったから解る。毎日終電近くまでの残業と奥さんとの不和が重なり、家庭内別居状態が1年にもなろうというころ、ぼくは、このままでは自分が壊れる、という事態になんとか直前で気付くことができた。そして本格的な別居を決意し、即実行に移した。そのころの自分はまったく酷い状態だった。足元がふらつくなどというのは漫画的表現だと思っていたが、そうではないのだ。駄目なときは本当にそうなるのだ。風景は傾ぐし、足裏の地面の感触もないのだ。駅のホームから転落しないよう、なるべく線路から離れるようにして歩いていたことを覚えている。

別居後しばらくして、やや落ち着いたころにやってきたのは、「あー、失敗したなー」という思いだった。何をか? 「この人生」をだ。ぼくは甘かった。人ひとりくらいなんとか幸福にできるものだと考えていたし、そうする決意もあったのだ。しかし、駄目だった。ひとりの人の人生を修復不可能なほど駄目なものにした、という自覚が襲ってきた。その上ひどく傷つけた。ぼくは彼女の目の前で結婚指輪を抜き取って投げ捨てたのだ。彼女は泣いていた。あれはただ相手を傷つけること以外に何の意味も持たない、言ってしまえば完璧な傷害行為だった。今でも取り消せるものならそうしたいと思う。

ぼくは自分を許せないという思いでいっぱいだった。そして、どうしたのか?

結局のところ、ぼくは、自分を許したのだ。

何も失うことなしに自分を許すことは不可能だ。ぼくは、自分を許す代わりに、自分を正しい人間であると規定することを止めたのだ。何を成すべきか知っていてそれをしない人間が、正しき人であろうはずはない。ぼくはそのことを受け容れたのだ。

以降のぼくの生は残骸だ。余生であって、なくてもいいものだ。この日記はその程度の人間が記しているものだということを、読む人には知っていて欲しいと願う。読んで有効に思えた部分があれば参考にすればいいが、自分の考えと合わない部分がもしあれば、そんなくだらない人間が何を言ってるのやらと笑い飛ばせばいい。所詮、その程度のものなのだ。


さて、では、その程度の人間が語るぞ。


xuraさんはある一点で自分を誤魔化していることを指摘する。某ゲーム中の台詞を借りれば、ならば「どうして今すぐにでも死なないんだ?」ということだ(こう言うと、か弱いメンヘラなど、当て付けでほんとうに死んでしまったりするのだけどね)。神の許しなど得るまでもない。現にいま生きているということは、どこかで既に自分自身を許してしまっているということに他ならない。それを認めるか否か? まぁ、認めない、私は私を許すことはできない、と最後まで言い張る生き方も、ぼくは尊重する。それはそれでとても厳しい選択だ。

でも、自分を許してやってもいいのだ。何も心配する必要はない。世界は大丈夫、まったく大丈夫だ。ここでぼくが世界と言っているものは、空間の果てから果て、時間の初めから終わり、その時空間の中で起きたことの全てと、起きなかったことの全て、一切を含んだものだ。それらは、大丈夫だ。xuraさんも、xuraさんが傷つけた相手も大丈夫だし、金持ちも貧乏人も、酷い殺され方をしたあの人も殺した奴も大丈夫だ。右も左も大丈夫だ。誰も彼も何もかも。ぼくはそういう世界を見ている。

世界は大丈夫だし、たぶん大丈夫だし、もし万に一つ大丈夫でなかったとしても、何の問題もない。それが世界の秘密だ。ぼくはまだそのことをうまく語れないけれどね(もしうまく語ることができるなら、今ごろ宗教家になってお布施で好きな本を買ったりお酒を飲んだりしていることだろう)。でも、例えば、たった1人にだったらこのことを伝えきる自信はある。この人生でそれを作る気はもうないけれど、ぼくのパートナーに対してであればできる。彼女に「世界はほんとうに大丈夫なの?」ともし聞かれたなら、ぼくは「夕飯はもう食べたの?」と聞かれて「うん」と返すのと同じように、「うん」と返事をするだろう。それは「確信がある」とか「知っている」という状態とは次元が異なる。夕飯を食べたかという問いとYESという答えの間には何の隙間もない。「夕飯を食べたことを確信している」「食べたことを知っている」とは言わないだろう。それと同じに、世界が大丈夫なことに確信があるわけでもないし、大丈夫と知っているわけでもない。ただ端的に「世界は大丈夫」なのだ。

xuraさんも、いつか必ず、そのことに気付く。そして、ああそんなことを言っていた奴がいたっけなぁ、と思い出すことと思うよ。


まぁ、見ての通りだ。自分のことを神だ天皇だと言い張って病院に収容されている輩がいるが、ぼくの症例はそれらを軽く超えていることを自覚している(しかもそれでいて社会生活は普通に営めるのだ)。中二病どころではない。perfectに狂い切っている。たぶんぼくは、自我の崩壊に際して、ここで語ったような世界観を編み上げるほかに自分自身を救う術がなかったのだろう。いちばんだめな自分が救われるのに他我が救われぬ法は有り得ないからね。

ぼくの言うことを信じろ、とは言わない。そもそも信じようが信じまいが、ぼくから見れば全ては「大丈夫」なのだから言わずとも何も問題はないのだ。やがては収まるべき場所に全ては収まる。ただ、それでも何かがぼくをして願わせる。可能ならば幸せであるようにと。そんなに気に病まないでもいいのだと。(正しき人でないからといって、成すことの全てが道を逸れている必要もないのだ)