すべての夢のたび。

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新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(1)

人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)

人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)


この本を紹介したいのだけど、まとめるの面倒だなーと思ってました。でもここは書評サイトじゃないんだからべつに適当でいいんじゃん!という気分になったので、一回でまとめなくても、気に入ったところを少しずつ引用したりすればいいか、ということにしました。

で、最初に「おー」と思ったところ。実はこの本を紹介してる他のはてダ2つでも同じところを引用してた(笑)。でも、そこからコピらずにちゃんと自分で打ち直しました。茂木さんによる南直哉さん評の一部。

 もっとも心に残ったことの一つが、南さんが95歳のおばあさんと交わしたという会話である。「和尚さん、死んだら私は良いところへ行けますか」とおばあさんに尋ねられて、南さんは「極楽に行ける」と答える。本来、仏教思想の根本は、霊魂や死後の世界の存在については「答えない」という「無記(むき)」を貫くことにある。それでも、南さんは目の前のおばあさんに「極楽に行ける」と答える。「行けるに決まってるじゃないの。こんなに努力して、一生懸命がんばったおばあさんが良いところへ行かなくて、どこに行くんだ」と言葉をかけるのである。
 ここには、私たちが生きるということ、その中で思想を抱くということにかかわる、よほどの難問題が横たわっている。だからこそ、私は南さんのこの態度にすっかり感じ入ってしまったのだろう。「おばあちゃんと話しているときの、存在する、しないということの判断基準をどこに求めるのかは、おばあちゃんと僕だけで決定しちゃいけない理由はないと思うようになったんです」と南さんは言う。「それでは、その決定の責任はどこにあるのか――。言った人間、つまり私ですよ」と南さんは続ける。「もし普遍的かつ絶対的な基準がどこかにあって、仏教で間違ったことを言ったら地獄に落ちると決まっていたとするならば、落ちる覚悟で言わないといけない。仏教者というのは、そういう立場にある人間だと思うんです」


うむー。深いな。表面だけ見ると「仏教 ちょっといい話」みたいですけどね。これは、いわゆる正当な仏教からしたら問題ありの態度だろうと思う。けれどもぼくは、もし仏陀その人であったなら、やはり南さんと同じような感じに95歳のおばあさんに接したんじゃないかなぁ、と思うのです。この場面では、そうでしかあり得ないのではないか。

まぁ実際には、責任を取ることなんて、できやしないのですけどね。仮にぼくの放った言葉で誰かが自殺してしまったら、そのことにどう責任を取れというのか。それに「もし普遍的かつ絶対的な基準がどこかにあって、仏教で間違ったことを言ったら地獄に落ちると決まっていたとするならば」、責任を取るつもりがあろうがなかろうが、覚悟があろうがなかろうが、地獄に落ちます。加えて言うなら、ほんとは地獄はありません。だって「世界は大丈夫」なんだから(笑)。

それでも、地獄があるなら落ちる覚悟を持って言葉を取り扱うべきだ。ぼくもそのことをよく忘れてしまうので、意識していきたいと思います。