すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

友達のいらない人

玄侑宗久さんと南直哉さんの対談本、「同時代禅僧対談 “問い”の問答」の261Pより。お2人がそれぞれのお師匠さんについて語っています。南さんの師匠はごく普通のお寺の住職さんとのことです。しかしなかなか、ふつうではないみたい。

 これもあるとき2人でお茶を飲んでいたときのことですが、いきなり「お前、友達が要らない人間だろう?」と言われました。たしかにまともに友達をつくったこともないから、「え?」と言ったら、「いや、俺にはそう見える。それはそれでいいんだが、これからお前にもたぶん弟子ができるだろうが、そのとき相手に対して犠牲を払う覚悟がなかったら弟子をとってはいかん」と。そして、こんなふうに言うんです。「お前が友達をつくることに興味がない、友達をつくる気がまったくないというのは、他人に対して自分を犠牲にすることがいやだからじゃないか?」――そう言われたときは、「これはヤバいな」と思いました。


ここで南さんがヤバいと思ったのは、「自分がそういう人間であること」じゃなくて、「師匠に自分のことをすっかり見抜かれていること」です。ですがぼくが「うわ」と思ったのはもちろん友達が要らないわけのほうですね。

はてブの新着をチェックして人間関係絡みのエントリを読むのがわりと好きです(はてな内のじゃなくてね)。同性どうしの、異性との、あるいは相手がいないことについての、いろんなそういうの。で、「みんなめんどくさいことやってるね!」って感想を持つのが趣味。まぁほめられた趣味ではないですね。

友達は、つくるもの、ですよね。ふつうそう。でも中には、どのくらいの割合かわからないけれど、(ぼくも含めて)友達(とかそれ以上)がいらない人間がいるんだと思います。自分がそれなのかどうかは、知るきっかけがないとなかなか気付くのは難しい。きっかけとは、上の引用部分でいう「覚悟」が必要な状況です。実際に自分を犠牲にしなくては問題が解決しないような場面にぶつかって、はじめて、自分に友達がいるのかいらないのかわかる。そういうイベントが起きないでうまくやり過ごせる場合もあるでしょうけれど、イベント自体は、覚悟があろうがなかろうが起き得ます。そして、自分が「友達がいらない人」であるのに、友達は必要という世間の常識にしたがって無理をするのは苦しいことです。

で、南さんは、今は弟子がいらっしゃるそうです。ぼくはずっと1人でいくことにしました。人間なのでいくらかの「つながりに対する飢え」はあるのですが、そんなものは、会社や飲み屋での少しの会話、ネット上で遊んでもらえること、あとちょっとの我慢で満たせる程度のものです。いちおうはまぁ「1人でいく」ってのも覚悟っちゃー覚悟なんですけど、友達を作る覚悟に比べたら全然たいしたものじゃありません。では今日も1人で出かけてきますよー。