すべての夢のたび。

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ハード・プロブレムのイージーな片づけかた

ハード・プロブレム」とは、デイヴィッド・チャーマーズが提唱した「物質としての脳からなぜ、またどのようにして主観的な意識体験が生まれるのか」(ウィキペディアより)という問題です。


人の頭のなかで百億単位のニューロンにより行われている情報のやりとり。これらは完全に物理的なもので、電気的/化学的な記述が可能です。そこからどうやって、明るいだとか、青いだとか、楽しいだとか、あるいは、自分が存在する感じだとか、そういった私たちの「ありありとした感覚」が生み出されてくるのか? 容易には埋められそうにないこのギャップを、チャーマーズはハード・プロブレムと呼んだわけです。

これに絡んで、有名ですが「哲学的ゾンビ」という概念もあります。私たち人間とまったく同じように振る舞うけれど、機械のように内面的な体験(意識)を持っていない存在と定義されます。そういったものが可能か?という話です。ハード・プロブレムの存在によって、物理的な脳から意識が生まれるプロセスが見えてこない現在、比較的そういう存在は想像しやすいのではないかと思います。ですが、一方には「そんなものはないよ!」という派閥もあって、そちらからは「ゾンビ直感に引っかかる」という言い方で揶揄されたりするようです。

哲学的ゾンビなどはない、という一派は、脳のような活動をする物体には必然的に意識が伴うのだ、というような主張をします(サーモスタットにだってサーモスタットなりの意識がある、という人もいるようです)。ぼくはどうもこの一派ではなかったようで、「その、"必然的に伴う"ってのはなんなのさ」と想像もできなかったのですが、次のように考えることもできるかも、と気付きました。


電線を巻いて作ったコイルのそばで磁石を動かすと、そこには電流が流れます。ですがここで「なぜ電流が流れるのか?」を説明することはできません。「電磁誘導によって」と言うことは可能ですが、それはあるレベルの無知を別のレベルの無知で置き換えただけで、「では電磁誘導はなぜ起きるのか?」と問われてしまえば同じことです。この問いを繰り返していくと最終的に辿りつくのは「では、なぜこの世界は存在するんだっけ?」です。存在しないこともできたのに。ここでほんとに問いは行き詰まり、説明不能になります。

哲学的ゾンビになぞらえて、こういうものを想定することが可能です。「コイルのそばで磁石を動かしても、電流が流れない世界」。そいつを哲学的ナニと呼べばいいのかは判りませんが、それは考え得る。しかしなぜか、私たちが住んでいる世界はそうではなくって、いま在るように在るわけです。そして同じように、脳のような活動をする物体には必然的に意識が伴う。とにかくこの世界はそうなっている。……と、件の一派はそんなふうに考えているのかも知れません。

もし世界がそのようなものだとすると、ハード・プロブレムというのは「なぜコイルのそばで磁石を動かすと電流が流れるのか」というような"考えても仕方ないこと"を延々考えているようなものだ、ということになります。要するに問いの立て方がおかしい、と。


しかしぼくにはこの「イージーな片づけかた」自体は理解できるのですが、あまりそれで納得はしたくないんですね。なにかこの「ハード・プロブレム」により現されているギャップのように見えるそれを上手に埋める説明が欲しい。まぁでも、もしそれができたら賞のひとつくらいは確実に取れそうですけどw

「脳の活動が意識を生み出す」という捉え方自体が間違っている可能性もあります。たとえば、演奏されている音楽と、その波形データを表示しているモニターがあったとします。で、モニターを眺めて、「なぜこの波のかたちからあのような音が生み出されているのだろうか?」と言っているような。この場合モニターに映し出されているものは、起きていることをある角度から捉えて表示したものに過ぎなくて(別にそれを楽譜にしてみてもいいわけです)、それが「演奏を生み出している」のでもなんでもない。「脳内のニューロンの発火状態を記述していくこと」も同じように、ある出来事を一定の切り口で表現したものに過ぎず、別なやり方もあるのかも知れないし、そもそもそれが意識と「原因と結果という関係にあるもの」ですらないのかも知れません。