すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

せっかく人間なのに

世の中に数多ある「なぜ、そうなのか」という問い。哲学では、結局のところこれらの問いは次の3つに集約されると言われています。

  1. 自分とはなにか
  2. 世界とはなにか
  3. 神とはなにか

2と3は似たようなものかもしれないし、世界が自分の鋳型、凸と凹のようなものと考えれば1と2も同じかも知れません。


ぼくは子供のころから「なぜ」を考えるのが好きで、それは(ご存知の通り?)今に至っても変わりません。ただ違うのは、やっぱり、問いの行き着く先が見えてきた、というところですね。

例えばオーディオが趣味なら、いずれは、スピーカーこそが最後に音質を左右するものだ、というところに行き着くのではないでしょうか。音の出口、結局そこを良くしないと、途中でいくら頑張っても駄目なわけです。

同じように、いろいろ「なぜ」という問いを考えていくとき、ベースになるのは人間です。結局のところわたしたちが人間であり、人間でしかないということが、全ての始まりになっている。なぜ人間はそのように考えるのか? なぜ人間はそのような行動を取るのだろうか? そういう、もっとも根っこの部分を押さえておけば、なんにでも応用が効くようになる、と想像されます。それが合理的だし、「できる限り楽をしたい」というぼくの性格にもあってます。そしてぼくは、そういうことばかりを考えるようになったのです。


ただ、この「人間とはなにか」という問いは、現状未解決です。時代時代の頭の良い人たちがずっと考え続け、調べ続けているにも関わらず未解決です。近日中に解決する見込みもありません。なので、解っている部分だけから、いろいろな「なぜ」についての"仮の"答えを出していくことになります。

デカルトは「我思う故に我在り」と、疑う我の存在だけは疑えぬ、というところまで問いを追い詰めました。しかしこれはちょっと追い詰めすぎで、実用には適しません。もう少し手前、感覚や感情がわたしたちには備わっている、ということは、確かなものとしてよいように思います。デカルトの言ったように、仮に悪魔がわたしたちをたぶらかして見せている幻だとしても、痛いものはやはり痛いし、嫌なものは嫌だろうから、そのままほうっておくわけにもいかないのです。

人間に備わっているそういった基本的性質を拠り所に、ものごとを考えていく。すると、快は善で不快は悪、というような基本的な価値観がまず出てきます。そして、事実多くの人はそれで十分満足できるんじゃないかなーと思うのです。いろいろあれこれ試さなくても、健康で、おいしいものを食べて、暖かい布団でぐっすり眠れるなら、ほとんどの人は幸福を感じられるのではないでしょうか。


そういう価値観って、割とありますよね。「田舎暮らし」ですとか、スポーツして汗かいてその後みなで飲むとか、クラブで踊るとか、音楽を聴いたり唄ったり楽器を演奏したり、スピードの出る乗り物に乗ったり。そういった、難しいことを考えなくても、誰でも解る「よさ」に寄り添って生きていてもいいんじゃないかって思っていたんです。

でもあるとき、ちょっと待て、とどこからかツッコミが入った。「快」に寄り添うだけなんて、それじゃ動物でよかったんじゃん、って。せっかく人間なのに、お前はそのことを使わないのか?と。



「ミッションちゃん」


人間と動物の差、それは理性です。感情の上位に立ち、時には感覚すらも押さえ込む力です。そういうものを活用してこそ、キミは人間であったと言えるんじゃないだろうか? こんな声が聞こえてしまうと、もういけません。動物的な快だけを求めるような生き方が、なんだか面白みに欠けるものに見えてきてしまいます(余計なお世話なのですけどね)。

というわけで、最近は、動物的それと人間的それの双方を同時に追い求めるのだ、と称して、居酒屋で飲み食いしつつ小難しい本を読んで考え事をしているのです。これって最高の贅沢ではないですか?(SMとかもそうかも知れません、他にももっとあるんでしょうけど) いや、理性の快楽だけに絞ると結構ストイックだったりするんですよね。折角なので両方活かせばいいじゃんって。