すべての夢のたび。

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哲学の2つの問い

世界を変えた哲学者たち (角川ソフィア文庫)

世界を変えた哲学者たち (角川ソフィア文庫)


レビュー見て興味持って買ったんですが、予想してたよりも面白いです。まだ読んでる途中だけど。

もんのすごいわかりやすいです。もうちょっと難しく書いてもいいんですよ……と思ってしまうくらい。あまりにわかりやすいものには用心すべきなんです。でも、この本は魅力的で、著者が何か仕掛けてるとしてもハマってしまってもいいか……と思っちゃうくらい。

医者は身体の病気を治す。そして哲学者は、魂の病気を治すのだ。そう著者は言います。そして、ニーチェもウィトゲンシュタインも、自分が病気だったんだと。だから、同じ病気を持ってる人にはよく効くんだと。なるほどです。ぼくも病気を治す人になれればいいなと思った。


で、直接は関係ないんですが、少し考えてたこと。

すべての哲学の問いは、2つのカテゴリに分けられる。

ひとつめは、「世界とは何か?」という問い。まぁ、ここでは"哲学"って言ってますけど、なぜ○○は××なのか、みたいな問いは、なんでもこのカテゴリに入る。なぜ人間は平等ではないのかとか。そして、その問いへの答えは、これこれこういう仕組みで・理由で、こうなっているからだと、なにかしらの原理を説明するものとなる。

このカテゴリの問いは、すべて、世界の一部分についての問いです。なので、集約すると「つまり、結局のところ、世界とは何か?」という問いになるわけです。

そしてカテゴリのふたつめは「なぜ世界があるのか?」というものです。これは「幸福になるため」とかそういった類のものが答えである問いではありません。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という、「存在の問い」です。こちらのカテゴリに含まれるのは、この問いたった1個だけです。

ここでぼくの好きな「熊ダンスのたとえ」を。「熊がダンスを踊っているのを見た時に注目すべきなのは、どんなダンスを踊っていたかではなく、熊がダンスを踊っているという事実そのものだ」というやつ。どんなダンス?ってのが「世界とは何か?」で、熊が踊ってる!ってのが「なぜ世界があるのか?」ですね。ウィトゲンシュタインもたしか、本当に神秘なのは世界が存在することだって言ってた気がする。

ひとつめのカテゴリに飽いた人が、ふたつめに行くんですね。病気が進行したともいう。まぁ、ひとつめのカテゴリの答えも、結局は「世界とは、このとおりのものである」なんですよね。あるがままである。あなたが見ているままである。そうでしかない。なので飽く。

なので飽いて存在の問いを問うんですけど、これあんまり答えが出ることに期待ができないんですよね。人間には過ぎた問いっていうか、人の形をしている限り仮に答えがあっても理解できないそういう問いなんじゃないかと思ってる(主には脳の構造や容量の関係で)。

そんなことを考えると、ああまぁ、死んでもいいかなぁと、そんな気分になってくるんですね。死は希望だからです。その向こう側がどうなってるのか誰も知らないという意味で。なにもないかもしれないし、なにかがあるのかもしれない。答えが待っているのかもしれない。どうであれ、死んでみないとわからない。ぼくにはわりと強い誘惑なんです。