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すべての夢のたび。

1日1記事の雑記ブログ

「生きるために働く」はほんとうか?

近頃わりとツイッター、ぼくのフォローしてるのがぼくと同じ労働者階級のひとたちばかりなせいもあると思うんですけど、会社批判、経営層批判、いまの日本の労働状況批判みたいなのを、目にする機会がいっぱいです。

その中で、最近特に多い、残業、サービス残業もう嫌!みたいなツイートを眺めてて時々、「俺は働くために生きているんじゃねえ、生きるために働いているんだ!」みたいのを目にします。

これただしくないとぼくは思うんですよね。

働くために生きているんじゃなくて生きるために働いているんだ。働くのが先ではなく生きるのが先だ。っていうこれ、人間の言語の構造からくる誤謬だと、ぼくは考えています。

人間の使う言語って、一次元的なんですよ。いちどにひとつのことしか語れない。だから、絵を見ても、「空があって、一面の緑があって、真っ青な空には白い雲があちこちに浮かんでて、広がる大地には青々とした木々や芽吹いた春の草や、そしてまっすぐ伸びる道が……」みたいなことを、ひとつずつ順番に言ってく。ほんとうは、それらのすべてはただただ同時に存在しているんです。でもぼくらがそれを語ると言語の制約から先後が生じてしまう。ひとつひとつのモノゴトを順番に語っていくしかない。だけど、それって、事実とは違うんです。

仏陀も言ってる。『正見』、セカイをありのままに見よ、って。

「働くために生きる」も「生きるために働く」も、ほんとうはどっちもウソ、なんです。それらはただ同時にある。働くことと生きること、生きることと働くことは、ある人にとっては、イコールで結ばれる。ただおなじことなんです。別の人(働かずに生きられる人とか)にはまたちがうことかも知れないですが。

だから、ここが肝心なんですが、「人は働くために生きているのではなく、生きるために働いているのだ」という前提から導き出されている人生訓っぽいヤツのかずかずは、だいたいうそです(笑)。前提が間違ってるんだからさぁ、しょーがないよねー。世の中、他にも、おなじようなロジックで語られてること、いっぱいあります。気をつけようね?

スプラトゥーン2 先行試射会

この土日はNintendo Switchで夏に発売予定のソフト、スプラトゥーン2の先行試射会(体験会)がありました。自宅のSwitchに体験用ソフトをダウンロードして参加する仕組みです。世界共通で8時間おきに6回各1時間ずつ、日本では25日4時、12時、20時と26日の同時刻でした。ぼくは3回参加。あと3回は酒飲んで寝てたり目覚まし掛けて起きたけど眠くてダメだったり用事で外出してたりでした。

さてゲームの感触は。Wii UのゲームパッドからSwitchのジョイコンorプロコンへとコントローラーが変わり、そしてマップ表示方法が変わったため一部ボタン操作が変わりました。まぁでもすぐ慣れるでしょう。遊んだ感じはだいたい同じです。大きな方向転換はスティック、細かい照準はジャイロ、操作感は変わらないです。

ぼくはWii Uではだいたいわかばシューターを使っていたんですが、試射会のブキでは選択できません。というか、2にわかばがあるかどうかもまだわからない。同じシューターであるスプラシューターを使ってみたのですが、なんか微妙にフィーリングが違ってあまりうまく動けない。新しく追加されたマニューバーのほうが、撃ってる感じはわかばに近いようでした。マニューバーのスペシャルであるジェットパックも面白かったけど、カーリングボムはなんというか微妙ですね。牽制用に投げてもこちらの位置がバレるし。投げた後をイカで追っかけてけばよいのでは、という案をいただきました。奇襲に使えるかな。


で、やっぱり、スプラトゥーンはおもしれーや、と再認識したわけです。夏が待ち遠しいですね。またバトルで小金を稼ぎ、ちまちまとブキやギアを買い揃えて行く日々が始まるわけです。ワクワクしますね。まぁ、2-3ヶ月したらもう1回くらい試射会やるんじゃないかな?って思ってるんですけどね。今回、Switchまだ買えてなくて参加できなかった、って人けっこういると思うんですよ。品薄はしばらく続くらしいし。


イカ、個人的にファンである実況者、シンさんの試射会1発目動画です。最初なかなかつながらないので2試合分しかないですが。あと、初代スプラトゥーンの試射会動画と比べてみると面白いかも、とおっしゃってたので、そっちも貼っておきます。



回転椅子動画



まぁとにかく動画を再生してください。バカで最高です。

椅子に亜酸化窒素ガスのボンベを取り付けて、開放。一気にガスが吹き出し超高速でぎゅんぎゅん回転します。パイロットや宇宙飛行士の訓練でもこんなに回らないのでは。

まぁ誰だって回る椅子好きですし、誰も見てなかったらぐるぐる回りたい気持ちはあると思います。しかしここまで本気で回るかな。装備が、もしすっ飛んでも万全、って感じのスーツとヘルメットですしね。椅子はいちおう両側から引っ張って固定してあるけど、雑ですよね。よくひっくり返らなかったと思う。

ところで亜酸化窒素ガスって麻酔に使う笑気ガスですよね。それをあんなに大量に空気中に噴出しちゃって大丈夫なのかそもそも。最後、椅子の彼のフラフラになって笑ってる様子、あれ結構ガス吸っちゃってんじゃないのかな。

『お嬢さん』観てきた


お嬢さん (2016年の映画) - Wikipedia

『お嬢さん』(おじょうさん、韓国語: 아가씨 (アガシ))は、2016年の韓国のエロティックサイコスリラー映画である。監督はパク・チャヌク、主演はキム・ミニ、キム・テリ、ハ・ジョンウ、チョ・ジヌン。ウェールズの作家サラ・ウォーターズの『荊の城』を原作としており、舞台設定がヴィクトリア朝から日本統治時代の朝鮮に変更されている。この映画は、2016年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出された。


観てきました。大変面白かったので、おすすめします。しかし「エロティックサイコスリラー映画」というところは、ちょっとどうかなぁ?って気がします。韓国産の屈折変態映画というような感じであったと思うのですが。

どういう話であるかはまぁ予告編を見ていただければ充分であるので語りません。映画を観ていて、ふと我に還ったりすることもあるのですが、『お嬢さん』に関しては最初から最後まで、そういうこと、退屈するようなことは一度もありませんでした。スクリーンから目を離すことができず、時間の経過を感じないままに最後まで見てしまいました。


そしてぼくは韓国が嫌い嫌いと普段から言ってることは多くの方がご存知かと思います。で、これは韓国映画。しかも韓国が植民地の時代を描いたものです。映画の冒頭から日本兵が出てきて、韓国人が敵意を剥き出しにしている。そういうシーンって入れる必要があるのかなー、結局韓国映画ってそういうものなのかな……?とその時は思ってしまったのですが、いいえ、この映画に書かれた韓日の関係、というか韓国が日本を見る視線は、もっとぐちゃぐちゃに歪んだなんとも言いようのないものだった気がします。それがこの映画の複雑な味わいの一部じゃないかと思います。

それでぼくは、「韓国のいびつな日本コンプレックス」として描かれているものを日本人の立場から鑑賞するという経験をしてきたわけです。韓国の人がこれを見るのとも、無関係な第三国の人が見るのとも違った感想になるかもしれません。でもそれでも、そういう立場を抜きにしてもこの映画は純粋に面白いです。変態だけどね(笑)。韓国人の幼女が演じる日本人の幼女が韓国語訛りのたどたどしい日本語で「ちんぽ」とか言うのです。そそられるでしょう? ぜひ見に行ってください。

死とはなにか

誰でも「死とはなにか」と考えたことがあると思います。ぼくも昔からずっと考えていました。現時点での答えは「死とはなにかわからない」です。

ここでの「わからない」は、まだ考えている調べている検討している最中なので「わからない」というわけではなくって、あらゆることを考え抜いたすえ、結論として出た「わからない」です。死とは"A"でも"B"でも"C"でもなく、"実際死んでみるまでわからないものである"ということです。

死はそこら中にある、ありふれたものです。身近な人の死や、ニュースで見る死、フィクションの死、歴史の中の死。つまり出来事としての死。これらはぼくらの生において、瞬間、自分の死、死ぬ時はどんな状況・死に様なんだろうということを思い起こさせたりします。また、科学の語る死や宗教が語る死もある。それらはもっと俯瞰的に、死後、について考えさせる効果があります。

前者も重要ですが、ここで語るのは後者のことです。

科学が語る死は一般に「死んだら終わり」です。いっぽうで、宗教の語る死は、たいてい、死後があります。死んだあとも続くものがある。天国や地獄へ行く、人間あるいは他の生物に転生するなど。科学は、死んだ後も続くもの、魂とか?について現在のところ観測できていないので、そういったものはないものとしています。仏教などは輪廻転生の輪を抜け出す(解脱)を目標に置いているように(ぼくの雑な解釈では)感じられるので、そのあたり科学に近いところがあるのかもしれません。

宗教はたくさん種類があるので死についてもたくさんの見解があります。プラス、科学の語る死が若干あります(死んだら終わりではなく、転生すると考えている科学者もいます)。でも、結局のところ、これらの全ては、推測や観察の結果にすぎません。「わたし」は「わたし」以外の全てとは異なるので、「わたし」の死が「わたし」以外の全ての死と同じであるかどうかは、「わたし」が死んでみるまでわかりません。

そうなんですよね。死んでから戻って来て「死ってこうだったわ」って語った人にあなたがまだ会っておらず、その人の言うことを信ずるに足ると結論していない以上、あなたは死についてほんとうはなにも知らないのです。あなたが死について知っていると思っている全てのことは、ただの伝聞や想像にすぎない。極端な話、あらゆる宗教の語る死はほんとうにそのままで、信仰している宗教ごとに、いや人ごとに、違った死後を迎えている可能性すらあります。科学を信仰してる人は単に死ぬと消失してたりね。もし神がいて、神が万能なら、この世界がそういうセカイに創られたことは、あり得る。

そんなこんなで、死についての問うべきことは最終的には究極の二択に絞り込まれます。つまり死後はあるのか、ないのかです。でもこれについても心配することはないんです。死後の世界があるなら、死とはただの入眠にすぎない。眠り、起きると、別の世界にいる。ただそれだけです。また、死後がない、死んだら終わりであれば、やはり死とはただの入眠にすぎません。眠っているうちに心臓発作か隕石の落下で死に、二度と目覚めることがない。それと同じです。

死は入眠と同じなので、怖いものではないです。ベッドに入る前に、このまま二度と目が覚めなかったらどうしよう、と心配する人はいるでしょうか(ちょっとはいるのは知ってる)。でも、二度と目が覚めなかったら、二度と目が覚めなかったことに気づくことすらないので、別になんか心配することはなさそうです。もちろん、目が覚めたら覚めたで、また生が始まるのだから、その喜ばしさに比せばあらゆる心配事はささいなことではないでしょうか。

というわけで、死とはなにかわかりませんが特に心配はいらなそう、ということになります。むしろぼくには楽しみですね。考え抜いた結果の答え合わせですから。まぁ死後がなかったら答え合わせの結果も知ることはないんですけど、知ることはないってことも知ることはないので何の問題もないです。それが"永遠の眠り"ってことです。

そして当面解決すべき問題は、出来事としての死、出来事としての自分の死になります。老死、病死、それとも事故死、自殺。現世といくらか関わりあるこちらには、ちょっと気を遣ってやる必要があるかもしれません。

死ぬまで生きる

これから書く話は、配偶者も子供もなしでこのさきずっと1人で生きて死んでく人間の考えていることなので、そうでない人には当てはまらないかもしれません。


ときどき、賃貸か持ち家か、みたいなのが話題になりますよね。ぼくは賃貸かなーと思うんです。持ち家は死んでも残るからです。たとえば資産価値が1000万の部屋だったら、ぼくは1000万の資産を使い切れずに残したまま死ぬ、ということになります。家族もいないのにもったいないですよね。もちろん、持ち家に住んでて、そろそろ死ぬかーってころに売り払って賃貸に移る、というのならそれでいい気もします。資産が残るくらいなら生活の質を上げたり旅行にでも行ったほうがいい。

資産といえば、体も資産だと思うんですが、これも使い切るようにできたらいいなぁって思ってます。自転車のロードレースって、車体を軽くするために、耐久性をギリギリまで落としてたりするんですよね。もうちょっと走ったら壊れる、みたいなところまで。そんなふうに、何十歳かまで生きられる程度の健康管理で、別にいいんじゃないかなぁと。ゴールが見えてれば、無理しないで、我慢しないで、もうあとは食べたいものを食べるし好きに飲む、ということも可能なんではないか。多くの人の健康管理は、ゴールを設定してないんじゃないかって感じます。

自分はここらへんまで生きる、ここらへんで死ぬ、っていうのが決まると、ミニマリストじゃないですが、そこを目指していろいろ手仕舞いをしていこうかな、って感じてきます。生活を小さくしていこうと思う。いろいろ片付けて、処分して、終わらせて、すぐ手の届く範囲のものだけにしていこうかなーと。最近はよくそういうことを考えています。前からときどき考えてましたけど、考える時間が増えた。


「死ぬまで生きる」というのは文字にするとあたりまえのようですけど、永遠に生きる気分で生きている人のほうが、たぶん多いんじゃないでしょうか。別にいつ死ぬかを考えることを推奨するわけではないです。ひとそれぞれにうまいやりかた(やりすごしかた?)があると思うので。ぼくはこうしたほうがいまをよりよく生きられるような気がしたので、こうしてます。

イギリスのカップラーメン

ぼくはたいていのものを美味しい美味しいと食べられる人です。マクドナルドはもちろん、おそらくコンビニで売ってるすべてのものを美味しく食べられると思う。ときどき、特に感動もなく食べることもありますが(社内で売ってる安い弁当とか)、これはまずい、食えない、無理と感じることは滅多にない。

そしてその「まずい」の数少ない代表がイギリスの食べ物です。って言ってもイギリスはフランス行くときに乗り換えで通過しただけで、簡単な機内食が出ただけなんですが、すごいまずさでした。ぱくりとかじりつき、そのまま固まりました。なんだこりゃと。これは食べ物か?と。いや、毒物だったら体が反応してすぐ吐き出してたと思うので、そうはならなかったということは、一応食べ物と認識はしてたということで、やっぱり味が変だったんでしょうね。


そのイギリスにもなんとカップラーメンがあるそうで。もうさ、聞いただけでアカーンって感じですよね。そしてその予想通りに激マズらしいそれを、シェフに食べてもらうという記事がありました。



このカップラーメンは以前ロケットニュースで試食記事があったそうです。その時のレビュー。


うげぇえええええええええええええええーーーーッ!! なんじゃこりゃあああああああああああああああああああああ!! こんな凄まじい味のカップラーメンは食べたことがない!! ごめんなさい、個人的感想を正直に言うが、これはヤバすぎる(涙)。

酸っぱくて、しょっぱくて、それなのにダシの美味しさが感じられない。しょっぱいお湯に麺が入っている状態だ。味だけでなく麺もかなりヤバいコンディションで、お湯をあまり吸収していないのか、かなりボソボソしている。


で、こちらが、シェフの感想。

ト「まずはスープから……」

――どうですか?

ト「かすかなビーフのエキスは感じられるのですが、トマトの酸味が勝ってしまっています。塩気も足りなければうま味もまったくない。」

――食べれなくはないくらいのマズさですか。

ト「味が足りなさ過ぎて笑えないまずさです。いっそ特徴的な味でまずいほうが笑えるんですが……」

――でもラーメンは麺が命ですから!

ト「麺もぼそぼそで味のしない粉を固めた何かを食べているような感じですね。なぜあのような刺激的な匂いをだしておきながらもこんなそっけない味になるのか……謎すぎる。」


だいたいいっしょですね(笑)。しょっぱさに関して一部異なる感想となっていますが、すっぱい、だし成分がない、麺がぼそぼそという。しかしこのカップラーメンは昔からあるロングセラー商品らしいです。イギリス人謎すぎるな。生まれた時からずっと美味しいものを食べたことがなければ、美味いという感覚を知らないままになんでも食べて生きていけるんでしょうか。

あと、このシェフの人がちょっと興味深い。共感覚を持っていて、食べたものの味が図形で見えるという。話を聞いていると、美味しさというのは味のバランスらしいな、という気がしてきました。足りないところを補ってやって、バランスの取れた味にしてやれば、食べられるものになる。ぼくは料理はぜんぜんやらないのですけどそういうことなんでしょうか。