すべての夢のたび。

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「社会から見れば、障害者がいなくなるのが一番優しい」

 鳩山由紀夫首相は14日、首相官邸で開かれた温室効果ガスの25%削減に向けたイベントであいさつし、「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい自然に戻るんだという思いも分かる」と述べ、独特の世界観を披露した。


件のこの首相発言に引っ掛かり、そりゃそうだけど、でもなぁ……というのを感じて、その後もモヤモヤしながらぼんやり考えていたのですが、そうこうしているうちに的確なひとことが出てしまいました。

首相の発言に対して、「そうかもしれないけど、それをいったらおしまいだよ」「これってアニメやマンガの大ボスのセリフ」など、リアリティのない発言に失望を覚えた人がかなりいる様子。ただ、一方では「一面の真理を含んでる」「分かってて言ってる。強烈な皮肉」など、好意的に解釈する人もいた。


「分かってて言ってる」は過大評価でしょうね。なぜなら、この発言の前日にはハイチで大地震が発生し"多数"どころではない死傷者が出ており、本来こんな発言が許容されるタイミングではないからです。

「これってアニメやマンガの大ボスのセリフ」が、個人的には今回の首相発言に対するレスポンスでは一等賞かと思いました。麻生前首相はマンガを読んでいましたが、鳩山首相はマンガだったのです。


しかし、この"返し"も結局はただ揶揄しているに過ぎず、ではどうして「それをいったらおしまい」なのかは明確になっていません。なぜ、ダメなのか。いろいろと考えてみました。

まず、一国の首相の発言として不適切だろうということは言えるでしょう。みな「国民の生活が第一」とうたう党に期待を持って投票したはずです。が、そのことと「人間がいなくなるのが」云々は真逆です。この2つを矛盾なく両立させるには、オウム真理教のように「相手のためを思うなら殺してやるのが一番なのだ」というロジックしかないでしょう。そういうことなんですか、首相?という。

また、「人間がいなくなる」となにが"よい"のか、ということも言えるでしょう。そもそも良い悪いという基準自体が人間の考え出したものです。それは人間が存在する間だけ有効な考え方であり、人間がいなくなった地球には良いも悪いもないのです。多くの生物が進化を続けているこの星の上では、もし人間がいなければ代わりに別の種類のサルがその地位を占めていただけではないかと想像されます。仮にそのサルが地球環境を大幅に変えてしまったら、ではそれは良いことなのか悪いことなのか?


等々、考えていたのですが、決定打には欠ける感じでした。そしてふと、エントリタイトルのように言い換えをしてみることを思いつきました。「社会から見れば、障害者がいなくなるのが一番優しい」。それではこの発言は、許容され得るのか?

この発言も「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」同様、一面の真実を突いています。障害者は本来、社会には負担であり、必要な存在ではないのです。だって、もし仮に先天的でも後天的でも障害は治療して正常化することが可能であるとしたら、みな、そうするでしょう? 好き好んで障害状態に留まりたい人は異常とみなされるはずですし、社会的にそれが許されることもないでしょう。何らかの目的のため(人に思いやりや助け合いの心を起こさせるためとか…)に一定数の障害者が存在することが社会には必須である、なんてことも、想像できません。

でも、「社会から見れば、障害者がいなくなるのが一番優しい」という発言は許容されません。なぜかと言うと、治療不可能な障害者が現に既に存在している以上、「いなくなるのが一番優しい」という発言は「死ね」と言っているのに等しいと受け取られるからです。

つまり、「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」は、既に人間が存在してしまっており非存在になれない以上は、単純に無理筋・無効な発言なのでしょう。そもそも初めからまともに取り合ってはならず、おそらく「はいはい」と聞き流すのが妥当なところだったのではないかと思います。出発点を間違えた発言に対し、さらに対応を間違えた訳です。


しかしそれでもまだ「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」には引っ掛かる部分が残っているような気がします。けれどおそらくこれは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い同様、何らかの誤った前提から出てきている発言であり、明確な回答や反論を引き出すことができない類のものなのではないかと思います。というわけで、なんとなく後ろ髪を引かれる思いはありますが、そろそろ関わり合うのを止めにする時だろうということにします。