すべての夢のたび。

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『ロボットは涙を流すか』

ロボットは涙を流すか (PHPサイエンス・ワールド新書)

ロボットは涙を流すか (PHPサイエンス・ワールド新書)

機能的・哲学的に難解なロボットの諸問題を、SF映画の話題作を通して分かりやすく論じる。複雑なロボットの骨格を学ぶには『ターミネーター』を、ロボットと我々の間に生じる「哲学的な障壁」の教本は『A.I.』『サロゲート』、C‐3POとR2‐D2はロボットの社会における役割を教えてくれる。果たしてロボットはどこまで人間に近づけるのか? 知能ロボティクスの第一人者が考える近未来が見えてくる。


ご本人に度を越してそっくりなロボット「ジェミノイド」でお馴染み、石黒浩教授の新刊。



初めてジェミノイドの存在を知ったときは、正直言って「ちょっと変な人だなー」と思ってました。やりすぎ、だと。ここまで似せてなんになるのだろうみたいな。しかしこの本を読んで印象は一変させられました。他にもそっくりロボットがあることは知っていたのですが、まず自分の娘のロボット、次に成人女性のロボット、そして最後に自分のロボット、というふうに、ちゃんと過程があったのですね。人間そっくりのロボットを作りたいが、石膏で型取りなんてことは自分の娘にしか頼めなかった。そしてそれに飽き足らず成人女性に依頼、ついには、やはり自ら体験してみないと解らないことがある、とジェミノイドの制作に至る。双子(=ジェミニ)としてのアンドロイド、です。

「ロボットの研究をする」というと、一般的には人の役に立つソレが連想されるんじゃないかと思うんですが、石黒教授のテーマは一貫して「人間とは何か?」なんですね。というかどんな分野であっても、突き詰めると「人間とは何か?」になる。それは学問に限りません。たとえば音楽でも「なぜこの曲はこんなに人を感動させるのか?」と考えれば、「そんな音楽に感動する人間とは結局のところ何なのか?」になるだろうし。石黒教授の場合は、それがロボットだった。ロボットにどんどんと"人間らしさ"を乗せていくことで、「人間とは何か?」に肉薄しようとしているわけです。

この本にはそういった「人間っぽいロボット」の存在する現場に実際立ち会っている人しか知り得ないようなネタが満載です。ぼくのような、「人間とは何か?」みたいな"どうでもいいこと好きな人間"には垂涎なんじゃないかと思う。教授は既にジェミノイドを遠隔地からリモート操作して会議に"出てる"とか(笑)、アンドロイドの手を取った人はみな「あたたかさ」を感じるとか(室温以上にはならないはずなのですが)、「先生、ますます最近ジェミノイドに似てきましたね」と言われたとか、病院の診察室に「ただ医者の話に合わせてうなずいたり微笑んだりするアンドロイド」を置くだけで、患者の医者への評価が上昇するとか。

でも、その中でも一番印象深かったのが下記のエピソードです。

 2009年9月、オーストリアの都市リンツにある、メディアアートで有名なアルスエレクトロニカという美術館で、ジェミノイドを展示した。その際単に展示するだけでなく、ジェミノイドのスイッチを突然切ることで、ジェミノイドが死んでいく様子を表現してみた。ジェミノイドは空気アクチュエータで駆動しているため、スイッチが切られるとそれまで空気の圧力でピンと張っていた全身が、徐々にしぼんでいく。生き生きと動いていた首も顔も目も、もうまったく動かなくなり、全身がゆっくりとくずおれるように、力を失っていく。それはまるで人間が静かに死んでいくような光景だった。
 この様子を観客に見せた時、深いどよめきが起こった。その瞬間、観客の誰もが、それがロボットであることを忘れていた。ジェミノイドが死ぬ様子からは、人間の死しか連想できなかったのである。


この箇所を読んだ時、ぼくはちょっと泣けてきてしまったのですが、自分でも何に対しての涙なのかよくわかりませんでした。たぶん、ロボットもとうとうここまで来たのか……という感慨と、"死ぬこと"によってついに人間だと認められたジェミノイドに対しての、祝福と冥福の気持ちのミックス、でしょうか。いや、死んでないんだけど(笑)。空気入れれば生き返るんだけどw

もうひとつ読んで良かったこと。この本からぼくはある洞察を得ました。なぜロボットやアンドロイドあるいは人形は常に「感情を持たないもの」として設定され、その獲得過程が物語として描かれるのか? 逆に言えば、感情の反対のものである理性/論理は既になんであるか解っており、ロボットに実装できるからなんですね。でも感情は相変わらずブラックボックスなわけです。それは不意にどこからかやってきて、制御できない。ロボットだけでなく人間にとってすら感情は他者であり未知のものなのです。だから、そんな解ってもいないものをロボットに与えたくても与えようがない、ということなのでしょう。