すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

昨日の記事の解説


…というご意見をいただきましたのでw

まずぼくのツイートについて。「あらゆる言語は普遍的構造を持つ」というのは、要は英語だろうがフランス語だろうが日本語だろうが中国語だろうが、アフリカのどっかのナントカ族だけが使ってる言葉だろうが、みな言語として認められる共通の性質を持っている、ということです。どんな言語でも名詞があり動詞があり、形容詞は名詞を修飾するもので、主語が動作主体を表し、述語が動作を表すみたいな。そういうのは基本的性質なんだよ、という話。一般にそう言われている。

で、「人間はあらゆる言語に普遍的構造を見い出す」というのは、「言語というものが普遍的構造を持つものだからこそ、どっかのナントカ族だけが使ってる言葉に初めてブチ当たっても、名詞や動詞や主語や述語の存在を手がかりに文法を解析していけるのだ」という話ではなく、そもそも人が「言語には構造として主語や述語があってうんたらかんたら」という前提を持って解析するからこそ、それが見つかってしまうのだ、と、そういうことを言っています。

たとえば、英語の研究者が日本語の文法を解析したとします。と、主語がなくても日本語の一文として成立しているように見えるケースを発見します(「いい天気だ」とか)。すると、構文的に主語を必須とする英語に照らし合わせて、「これは英語で言うところの"It"が省略されて表記/発声されているケースなのだ」と結論付けてしまう。でも日本語の研究者の中にはそもそも日本語は主語を必要としないのだという主張をしている人もいるわけです(このへん、西洋中心主義もあるでしょうね)。

また、アメリカインディアンの中には、わたしたちのような名詞ベースではなく動詞ベースの言語を使う人たちもいると聞いたことがあります。その部族の言葉でいう「家」を無理にわたしたちの言葉に訳せば「家する」になる。人が住む家は「家庭的に家している」になり、教会なら「宗教的に家している」になる。世界を固定したものでなく流れ行くものとして捉えているから、こういう言語が発生するのでしょう。

そのように、あらゆる言語がほんとうに普遍的構造を持っているのかどうかは、はっきりしない。しかし、普遍的構造を持っている、という前提で眺めれば、そのように見えることを避けえないだろう、と考えられます。

で、それに対する@necratalloさんのリプライですが、これはさらに深かったのです。「あらゆる言語普遍的構造を持つ」という文章の「」は「」、イコールだろうと言っているのです。左辺と右辺は等しい。つまり、もし人間がソレを解析した結果として普遍的構造(≒英語並の構文規則)を見出せなかったら、残念ながらソレは言語として分類・認識されないだろう、という指摘なのです。いったい、鳥やイルカは言語を使えるのだろうか? それはひとえにわたしたちが彼らの鳴き声から文法を抽出できるかどうか、ただそこに掛かっているのだ、ということです。鳥やイルカでなく宇宙からの電波でも同じことです。

……と、ここまで書いてちょっと部屋が暑くて力尽きて来たので、続きはあした!w 後半部分はもうちょっと考えてからにします。