すべての夢のたび。

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言語の実践


「すべての言語は共通の普遍的構造を持つ」(名詞やら動詞やら形容詞やら、主語やら述語やら)と言ったのはソシュールでしたっけ。よく知らないしうろ覚え。でもそれって、そんなふうに自分に都合よくものごとを分類しがちな性質を人間は持っているっていう、ただそういうことなんじゃないのかな?という思いつきをツイートしてみた。1と0.9999…の関係みたいなもん、というのは、これって同じことを違う表現のしかたで言ってるだけだよ、という意味。


そしたらこういうreplyをいただいてハッとしたという。さすがだ。そのとおりだ。「言語は普遍性を持つ」は「普遍性を持たなければ言語ではない」ということだ。言語に普遍性を見出すのが人間だということは、人間は普遍性を見出せなかったものを言語とは認識しないだろう、ということなんだった。

同じことを言っている、というより、あるひとつの事実について角度を変えて言っている、という感じだろうか。群盲象を撫でるみたいな? 少し違うか。でもぼくらはたしかに言語の生成過程については盲なのだ。すでに完成してしまったものを受け入れているだけだ(大文字の他者でしたっけ?)。

そして、どんな言いかたをしたところで、事実そのものとはずれているんだった。ぼくらは言語の普遍的構造に則った上でのみ、考えたり話をしたりすることができる。言語は一次元的で、一時にただひとつのポイントに着目することを強制し、その副作用として時間の流れや因果関係が発生する、ように見える。けれども事実のほうは、ほんとうはすべてを一挙にまるごと把握するしかない性質のものなのだ。そこには原因も結果もなく、変化する全体がただあるだけだ。

という「このこと」についてすら、言語で語るほかないんだった。ただ同じことを言いかたを変え何度も繰り返し繰り返した末に「わかった?」と問いたくなる。その問いも応えもまた言語をもってなされるしかない。言わんとすることを言えているだろうか? うまく伝わっているだろうか? 「わかる」とはなんのことで、「伝わる」とはなんのことで、それをあなたに問いたい気持ちがなぜ起こってくるんだろうか。