すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「哲学的ゾンビはいない派」への転向

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

第1章 目が覚めるとはどういうことか

 たぶん、あなたが目を覚ましてから、まだ一日とたっていないはずだ。目が覚めたのは、今朝、日がまた昇ってまもなくのことだろう。あなたにとって、目が覚めるというのは、どのようなことだったか? 覚えているだろうか? 牛乳瓶がぶつかり合う音、シーツの感触、青い空……。あなたは目をこすり、伸びをする。すると、いつのまにか、感覚の波があなたの存在という湖を再び満たしている。あなた主観的現在の中に再登場する。あなたは再び、自分が生きていると感じる
 これは、なにもあなただけのことではない。きょう、この地球上で無数の人間に同じようなことが起こった。私たちの惑星は、ただの星屑の塊で、宇宙に散らばる他の小さな天体と何の変わりもないと言われている。ところが、この惑星だけが、途方もない現象の舞台となった。ここで「センシェンス〔感覚を意識すること〕」という能力が進化した。この惑星で意識ある自己が本領を発揮するようになった。この地球には、が息づいている。


今日買ったソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想の本文冒頭(太字部分はもとの本では傍点です)。いきなり、おお!と思いました。「目が覚めるとはどういうことか」というのは、ぼくが繰り返し考えたテーマだったからです(つーか、章タイトルからしてぼくっぽいw)。その「こういうことだよな……」というのが、買った本の先頭にそのまま書かれている。これは、もう期待するしかないではないですか。

そして本というのは、そういう姿勢で読めば、より多くのものを与えてくれるものなのです。本文30-31ページの記述で早くもやられた。

 理由は単純で、あらゆる科学の根底には、物質的原因なしには、面白いことは何一つ起こらないという基本原理があるからだ。ようするに、奇跡は起こらない。人間の心のなかで意識経験が生じるとき、それは脳のなかで起こるさまざまな出来事の結果だ。さらに、そうした出来事が(一つ残らず)起こった場合、結果としてその人は意識を持つことにならざるをえない(だからこそ、哲学的ゾンビという発想はナンセンスなのだ)。


哲学的ゾンビというのは、ご存知の方は多いと思いますが、Wikipediaによると「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間と定義される」というものです。外から見るかぎり普通の人間とまったく変わりなく見えるけど、ぼくたちの持っているような"この意識"がない。内的体験がない。そういうものです。

哲学的ゾンビを想像しにくい人は、石黒浩教授の作成された超リアルなアンドロイドを考えていただければいいと思います。あれは人間そっくりだけど、もちろん意識を持っていませんよね、アンドロイドだから。そうじゃなくて、バラしても人間そのものなんだけど、意識だけがない。そういうものを哲学的ゾンビと呼びます。

この本の著者ニコラス・ハンフリーによると、そういう"哲学的ゾンビ"なるものは存在しえない。まったくナンセンスだという。なぜか?


人間の意識というのは、脳の活動の結果です。「何かを考えている時、脳の○○領域が強く活動することがわかった」という、そういうニュースを時々目にしますよね。「○○症の患者は脳内物質である☓☓の分泌量が少ないことがわかった」とか。そして精神科で出されるクスリを飲んで症状がやわらいだりするわけです。

これはつまり、意識は物理現象であることを表しています。というか、あたりまえなんですけど、科学的な立場を取るなら、物理現象以外のものは世界に存在しないわけです。幽霊ですら、もしも存在するなら物理的に説明がつくはずです。だって、いつも同じ場所に現れるってことは重力の働きを受けるし他の物質と相互作用もするってことだし、人の目に見えるってことは人の網膜に反応する光が出ているってことですからね。「脳に直接侵入するんだよ」ってことにしたって、脳細胞に作用するなんらかの力がある、ということになってしまいます。

ひとに意識があるそのとき、脳は必ずなんらかの活動をしている。ということは、脳がなんらかの活動をしているとき、そこには必然的に意識もある、ということになります。少なくとも、ある脳が、その脳の持ち主の意識があるときと同じ活動をしているように見えたなら、そこには意識があるのです。ひとつの物理的現象が、ふたつの異なる結果をもたらすことはない。オカルト/スピリチュアル的立場ではなく、科学的立場を取るなら、それはありえません。「意識があること」と「脳が(意識があるときのように)活動していること」は、ひとつの出来事の単なる別の記述である、ということです。


まったく、言われてみれば当たり前の話であって、こんな簡単なことにどうしていままで気づけなかったのか不思議なくらいです。というわけで、ぼくはあっさりと「哲学的ゾンビはいない派」への転向を果たしたわけです。いままでは「いる派」ではなくて「いるかいないかよくわからない派」だったので、正確には転向とは言わないのかも知れませんけれど。

さてこれで、確証が持てたわけです。意識は物理的に記述ができるものであるということです。それがいまや確実なものとなった。方法はまださっぱりわかりませんが。しかしこの本の著者は、自分はそこにいくらかは近づいたと主張しているようです! 期待を持って読み進めたいと思います。