すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

人工子宮が近づく




ブリスターパックで売られてる羊の赤ちゃん……ではありません。これが人工子宮なのだそうです。その中で育つ羊の胎児です。

しかしこれで、おー人間もいよいよ生殖行為から解放されるか!男性も女性もパートナーなしに子供を持てるか!マトリックスが近づいたか!と思ったんですが、まだそこまでではないようです。

「Biobag」と呼ばれる人工子宮は初期の胎児を母親の代わりに育てるというものではなく、予定日より数カ月早く生まれてしまった子どもを、より母親の子宮に近い環境で育てるためのものとのこと。未熟児として生まれた子どもが集中治療室で育てられた場合、臓器系の発育不良による不調をきたす場合があるためです。


だそうです。未熟児用のシェルター、という方が適切で、人工子宮と言うにはまだまだほど遠いもののようでした。まぁね。嫌な想像ですけど、もし最初から受精卵をこういうのの中で育てた場合、なんかわけのわからない脈動する肉塊が日々大きくなってく……みたいな絵面が浮かびませんか?


人工子宮によって女性が生殖から自由になって、産休を取る必要もなくなり今より働くのが楽になるかというと、どうでしょうね。新しい生命を作り出せるというのはものすごい特権ではないかと思うので、現在のように女性の地位が男性の下に置かれたままでそれを手放すというのは、フェミニスト団体等が容認しないのではないかという気がします。「産まない機械」と見られてしまったらどうなるか。

プロのテルミン動画


ドイツのプロのテルミンプレイヤー、キャロライナ・アイク(CAROLINA EYCK)さんによるテルミン演奏。

最初は自分の声をループ&マルチで録ってベーストラックを作っていきます。うーん、それだけで充分聴けるものになってて既にすごいと言わざるを得ない。

そこにいよいよテルミンの音を被せるわけですけど、あ、楽器じゃんて思う。テルミンてただヒヨヒヨフワワ〜ンみたいな音を出すだけのデバイスではなかったんですねって。あんまり正確に音程がコントロールされてるので、何度見ても「これサンプリングじゃねーだろうな……?」って疑いが拭えません。ほんとにこんなにちゃんと演奏できるの??? この人いっぱい動画上げてるから、ライブっぽいやつ探してみればいいのかも。

と思ったらありました、ピアノとやってるやつ。どうやら有名なオーケストラとの共演がいっぱいあるもよう。



やっぱ本物かー。すごいなー。しかも美人だし(笑)。天は器が大きい人には二物以上与えたりするんですね。

ゴクゴク禁止


これこそ、「ば〜〜〜っかじゃねえの!?」って気がしますがいかがでしょう。

 自主規制といっても、内閣府のアルコール健康障害対策関係者会議ワーキンググループの会議で「アルコール依存症の人に苦痛を与える」といった指摘がなされ、業界がその指導に従ったものだ。


だったらダイエット中の人に苦痛を与えるから食いもののCM全部やめたらどうですか。なんかなぁ、考えなしの思いつきのアイデアを、これまた誰も良く考えないでそのまま採用したふうなニオイがするんですよね。なんかこー、なんとなく仕事してる感じ出すために会議とか開催して、そして何も結果出さないとアレだからとりあえず言ってみましたみたいな。たぶんそんなとこなんじゃないのかなぁって気がします。だってこれ聞いて、すげえ!名案!ってならないでしょ、普通の人は。

ほんとにアル中を苦しめたくないんなら「ゴクゴク」「喉元アップ」を禁止して、アル中の人が減ったかどうかちゃんと追跡調査して検証すればいいんですよ。だって効果もないことするのまったく無駄じゃないですか。ていうか、「で、この自粛でアル中は減るんですか?」って聞いて、答えが「わかりません」だったら、「ば〜〜〜っかじゃねえの!?」じゃないですか?

でももしかしたらもっと高度な話だったりする? だってさ、売上が下がりそうな提案を業界がそう簡単に受け入れないと思うんですよね(例えばタバコみたいに缶ビールの下半分に「酒は毒です!」って書くとかね)。関係者全員で握って、アル中を減らそうと努力してる感じを装いつつ、かつ、ビール業界の売上にも影響しない方法を考え、世間から「ば〜〜〜っかじゃねえの!?」って言われるんだろうなぁコレとか思いつつ、バカのフリしてリリースしてみました!ってことだったり、します? うん、やってる風を装う、っての、どこでも結構あるんじゃないかと思うんですよね。まぁ真剣に頭使って考えた結果がコレですって信じたくないだけなんですけど。

自己責任の使いかた

世界が自己責任であることについて - すべての夢のたび。



前日の記事についての付記です。


「世界が自己責任であること」、世界のなかで起こる全てのことが自己責任であること。この考えをぼくは正しいと思っています。が、一方で、世界に絶対に正しいことなんてないんだとも、絶対に正しいことが仮にあったとしてもそれは人間には知る由もないだろうとも思っています。だから「世界が自己責任であること」ってのは、ある意味ぼくの信仰なんですね。

だから他人にこの考えを押し付けるつもりもありません。多くの人は、自己責任であることと、他者の責任であること、運命であること、ただの偶然であること、などなど、まぁいちいちこれはどれなのかと考えたりはしないでしょうけど、もし聞かれればそんなふうに答えるんじゃないでしょうか?

かく言うぼくも、たとえば会社で仕事しててなんか具合の悪いことが起きたとき、原因を考えて、これはあの人のせいだな……というふうに考えたりはします。平時はそんな感じです。ただ、もうどうしようもないときに、信仰に頼るんです。自己責任なんだからと。そこは最後の地点なんです。諦めて、受け入れるところ。で、まぁ仕方ないか、と先に進むわけです。


あとですね、この信仰は、たぶん死ぬ時に役立つ。つまり、死の間際に、ふり返る時間があったとして、満足行く生だったらいいですよ。でも、もし、そうでなかったら? そこで、誰かのせいで自分の人生は失敗してしまった、という思いが湧いてしまって、そのまま死んでしまったら……? なんかぜんぶ台無しくさくないですか。そう、なので、自己責任であることをきちんと知っておくことは、大事なんじゃないかと思うのですよ。

世界が自己責任であることについて

自分のものの考え方はときどき点検する必要があると思ってます。


ぼくは最終的にはありとあらゆることが自己責任だと考えています。理由はシンプルで、生きることは義務ではないからです。死んで良いんです。義務ではないのに、人は生きることを「自分で選択して」生きているのです。自分で選んだんだから、そこで何が起ころうが自己責任ですよね。そういう考え方です。(宗教によっては生きることを義務としているものもあるので、そういう宗教を信仰している人にはこの考え方は適用できません)

……という、この考えが最近ちょっと揺らぐようなことがありました。ぼくらは世界に生まれてくるかどうかを選べなかった、と言う人がいたのです。生まれたいかどうかを聞かれず、ある意味強制的に世界に存在させられたのだと。なるほど、そうであれば、なのにそこで起こることは全部自己責任だよって言われたら、ちょっとどうなのかな?って思っちゃいますね。

けれど、すこし考えて、「生まれるかどうかの選択」があるなんてウソだな、と思いました。人はまず、生まれてから、やがてその人になるのです。生が先で、人が後で、生なしの人というのはあり得ない。生まれる前を考えることは意味がない。既に生きている状態から問いは開始されるのだと。


でもまだぼくの考えには穴があるかもしれません。ひとつは、生まれてからその人になるまでの間のことがあります。要は赤ん坊とか、まだ自我がない子供のことです。赤ん坊がひどい病気に罹患して苦しんでいる時に、それを自己責任と言えるだろうか?(大人相手なら言えます。大人ならそこで死を選択可能ですから) もうひとつ、生を選ぶのも死を選ぶのも自由だとしても、死を選ぶのはちょっとハードルが高いのではってのがあります。それゆえ生きざるを得ないのではないか、という面は確かにあるかもしれません。まぁこのあたりの思想的瑕疵もゆくゆくは塞いでいけたらなぁと思います。

中国パイセン!


実際にはもちろんある日突然にではなく、ずっとずっと前から続いてきたことの結果なんでしょうけど、ここ最近、中国は日本をいろんな面で追い抜いた、という言説を良く見るようになりました。そう言えば近ごろは、「さすが中国クオリティwww」みたいなニュースを聞くことも減った気がします。爆発ニュースもあまり聞かない。爆買いブームは終わったとか聞きましたがまだまだ町なかに観光客としての中国人はとても多いです。(北朝鮮情勢は知ってるだろうから、まだそんな危機であるという認識はないのでしょう)

日本は近年の中国を、ただ劣っていると見なすだけではなく、バカにしている面がありました。一部の人たちは笑ってる場合じゃないぞって警鐘を鳴らしてくれてはいたのですが聞き流してた。そのうちに、10年か20年かの間のうちに、追い越されてしまいました。そしてこれから差はさらに広がっていくんじゃないかと思います。日本は相変わらずいろいろダメだし、中国もフル加速での前進を止めないでしょうから。

たとえば研究者・技術者が10倍いれば、「なんかすごいコト・モノ」が見つかる・できる確率が10倍になるわけですよ。そして1/10の時間で達成されたソレが、あっと言う間に仲間うちに共有されて、それを基にまた研究開発が進んでいくわけです。そりゃ抜かされるわと思います。

その上日本は今に至っても予算削ったりしてる最中じゃないですか。これ政策転換しても追いつくのに何十年かかかるレベルですよね。うーん、ほんとにこれ政策が悪いだけの話なんだろうか。しかし仮にそうだったとしても、日本では政治家を選ぶのは国民なんだから、結局ぼくらのマインドの問題があるんじゃないかという気がします。

まぁ、昔、中国パイセンはすごかったのです。日本は漢字に始まり?偉大な中国パイセンからいっぱいいろんなことを学ばせていただいた。ここ最近(数十年?)、ちょっと様子が変だったけど、復活されたってことなんでしょう。あーやっぱパイセンスゴいっすパないっす!って、頭を垂れて再び謙虚に学ばせてもらったらいいんじゃないかと思います。ぼくの着てる服もそのうちメイドインジャパンばかりになるのかも知れないなぁ。


それはそれとして。それはそれとしてですが。中国がすごいのはこれ間違いなく事実なんですけど、「中国スゴイ論」には警戒していかなくちゃいけないかなって思ってます。「日本スゴイ論」ってあるじゃないですか。「中国スゴイ論」は、アレと似た臭いの、ベクトル逆なやつです。中国のすごさはただ淡々と語られればよく、それを聞いてぼくらはただ反省したり参考にしたりすればいいのであって、それになんか余計な、他国をサゲるニュアンスがくっついてるものは、それを誰が言ってるのか気にしてく必要があるかなって。

マラソンの最中にどうやって道路を渡るか


ボストンマラソンだそうです。

なるほどな、と思いました。充分幅のある道路を半分に区切り、片方をマラソンのコースとしてランナーを通させておく。横断者を道路の中央まで進めさせて、コースを切り替えて横断者の後ろ側をランナーが走るようにして、横断者は道路を渡りきると。

工夫が見えたのが2点。まずコースを切り替えるロープが進行方向に対して直角ではなくかなり斜めに伸ばされている点。そりゃいきなりコース変更されたら戸惑うし事故りそうですよね。もうひとつは矢印の看板で「こっちに寄れ!」って案内してる点。なるほどこれなら更に遠くからでもどう走ればいいかわかりやすい。それでも前を見て走ってないのか、コース切り替え係にぶつかりそうなランナーはいましたが。

コース切り替えで数秒のタイムロスはあるかもしれませんけど、ほんとのほんとの先頭集団以外はあんまり関係ないですよね。よい方法だと思います。日本だとどうなってるのかなぁ。各自にまかせてたまにランナーにぶつかるくらいでしょうか。歩道橋使えとか?