「供」は「従者」の意味で差別表現だから、「子供」じゃなくて「子ども」と書こう、と主張する人たちがいるという話。
http://d.hatena.ne.jp/./kanose/20050430#kodomo
- “子”と“小”は語源が同じではないのか? “小さい人間”という意の呼び方自体差別表現ではないのか?
- 「子ども」が差別表現でないなら、「君はまるで子どもだね」という表現に差別の意図はない、としてよいか?
- 発音された「コドモ」という音に、「君は脳内で“子供”と“子ども”のどちらを意図していたのか」と問うのか?
この問題そのものはどうにもばからしいですが、こういうリクツをひねってみるのは面白いです。わたしはどちらでもいい(つか、どうでもいい)というスタンスですが。
「コドモ」はやはり「子ども」と表記したい。字面からも、子どもらしさが浮かびあがってくるように思うのは、わたし一人ではないだろう。
浮かび上がってくるようにまるで思えないのもわたし一人ではないと思う(笑)。むしろ「子供」なら一単語として認識できていたのが「子ども」では“子”+“ども”に見えてしまい、「野郎ども」「馬鹿ども」みたいにマイナスのイメージさえ感じる時もある。その場合は平坦なアクセントではなく、「広い」みたいな中央の音が上がるアクセントで読むのです。「ええい、この子どもがっ!」(笑)
そもそも、この問題では差別されるのが誰なのかよくわからない。その辺の小学生が「“子供”と“子ども”のどちらで書かれたいか」について意見を持っているだろうか? “子供”と書かれたら差別を感じるのだろうか? 「子ども派」は「“子供”は差別表現」だとあえて教えるのだろうか? 「子ども派」さえじっとしてたら、別にホコリは立たないんじゃないかと思うんですがねー。
うーん。これ、面白いゲームなんでしょうか? こんな仮想被差別者についての問題をうんぬんするより、じっさいに生きているコドモに関する諸処の問題(人権とか教育とか飢餓・病気とか)に時間を割いた方が有益な気がちょっとします。でもまぁ他人の時間だし、楽しんでやってるんなら大きなお世話でしょうけど。
それともこれは「表現の自由」とかを守ったりする戦いの前線のひとつなのかな。