すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

恋愛について。

kiya2014さんから8日のエントリにコメントをいただきました。ありがとうございます。

恋愛について。
その痛みは「会えなくなる」ことに対するものというよりは、「だけど僕はたいして痛くない」ことに対する痛みじゃないでしょうか。矛盾していますけど。
行動しようと思えばどこまでもそれは可能なわけです。でも結局あなたは行動しないわけです。あなたはその人がいなくなって寂しい、しかしその寂しさそのものもやはり交換可能な程度のものでしかない。
愛しているから辛いのではなく、愛することが原理的に不可能だから辛い。すくなくとも、僕は。


改行位置を少々変更させていただきました。読んで思ったことを少し書いてみます。まぁ内容が非モテくさくなるのはご容赦。


「いつか白馬のお姫様に巡り逢えるかもしれない」というのが、非モテ男子にありがちな幻想かと思います(まぁ、マンガの読みすぎだろう)。ぼくも昔はそう考えていました。でも、誰かを好きになったり、すこし付き合ってみたり、というのを幾度か繰り返すと、そうじゃないな、ということに気づくわけです。誰でも良い、とまでは言わないけど、一定の(自分なりの)基準以上であれば、充分、付き合う相手としては足るのだと。それがkiyaさんの言う「交換可能」ということでしょう。

しかしここでそれを「交換可能」と言ってしまうと、どうしても否定的ニュアンスが漂う。ぼくはその事態をもっと肯定的に捉えるべきではないかと考える。つまり、「ほとんどの人は、そう少なくはない数の異性と、なんとかうまくやっていける能力を現に持ち合わせているのだ」と。そしてたとえ交換可能と言えど「みな同じ」というわけでは決してない。どころか、すべての人が事実オリジナルであり、自分とその人との関係は全宇宙の時間空間を通じて真実ユニークである、はずだ(ということの正しい理解を「一期一会」と呼ぶのでしょう?)。

原理的に不可能、なのかなぁ? ぼくはそこは疑問に思います。いつか運命の人に巡り逢う、か、巡り逢わない、か、交換可能な人に巡り逢う。ぼくはそうじゃないと思ってます。パートナーとして死ぬまでこの人生を幸福にやってけるだけの相性を持つ異性は数多くいる。その中の誰かと実際に付き合い始めて、すごくうまくいったら、その時点で「ああ、運命の人だったんだ」と、過去/歴史が遡って創造/捏造されるのです。うまくいかなかったら、「運命じゃなかった」とか「交換可能だから」ということにされるのです。うまくいってたんだけど途中で駄目になったら、「運命の人かと思ってたんだけど、違ってたみたい」ということに、後付けでそうされるのです。

というふうで、交換可能ということを人を愛せない言い訳には使いたくない、とぼくは思います。


で、行動しないのはどこまでもぼくの責(自己中・怠惰・自信のなさ・情熱のなさ・計算高さ、その他もろもろのよくない性質)であって、彼女の責(って言うのかなぁ)や、「交換可能」だから、ではありません。ここは一応はっきり分けておきたいと思います。