すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

夢見てモノ書く

fromdusktildawnさんの「分裂勘違い君劇場が目指したものとその舞台裏」やその他最近のエントリを見ると、「解題・ムーノーローカルの作り方」が連想される。どちらも思わずHDDに保存したくなってしまう文書なのだけど、そこを堪える必要がある。保存して安心して終わってちゃいけない。どちらも、実際に活用しなくては意味がない、または、自分のブログについてのこれらに相当するものを練らなくてはいけないのだ、と思う。

つっても無理ですけどねー。やはり、こういうことができる人たちとは何かが違うんだろうなぁ。頭の回転の速さももちろんそうなのだけど、一番感じるのは、自分で決めたことをやり遂げようとする意志の強さでしょうか。ぼくにはそれがない。このブログでやりたいことの方向性は一応はあってぼんやり目指してはいるのだけど、やる、と自分と約束しているのは「毎日更新」のただひとつだけです(それさえときどきインチキがありますが)。


ぼくは、絵や音楽などのほうが絶対に言葉よりすごい、と考えています。絵を描ける人たちや曲を作れて演奏ができる人たちをほとんど無条件に尊敬している。言葉なんてぜんぜん大したものではない。思っていることはまずまともに伝わんないし、伝わる範囲だって狭すぎる(日本語しか書けないしなぁ)。昔インドへ行ったとき、まぁカレーを食べるわけですよ。トマトとチーズの、とろっとした赤いカレー。そしてすげえ美味いわけ。なにこれ!?と思いつつ宿の厨房のほうを見ると、ドア(ないけど)の影からインド人コック(の格好はしてないけど)がこっそりこちらを覗いている。そっちへ顔を向けてこぶしをグッと握って、ウマいよこれ!という思いを込めてニッコリ微笑んでみせる。と、彼も、そうだろう?という顔ですこし控えめにしかし自信ありげに微笑みを返す。そして、なーんだ、ちゃんと伝わってんじゃん、と思う。言葉なんて介在しなくても100%伝わってる。それだけでいいんじゃないか。

そして絵や音楽には(あっ、料理にもか!)そういう、ダイレクトに何かを伝える力がある、と思う。それは言葉にはない。しかしぼくには言葉しかない(ネットだしな)。ので、言葉でその何かを伝えようとあがくわけですよ。すると論理を超えた部分でなんとかしなくちゃいけなくなるわけです(コンピュータ用のプログラム言語で詩を書くにはどうしたらいいのかって話)。初めから無理な相談と解っていながらも、それでもその場所へもしかしたらいつか到達できるんじゃないか?(肉薄ではない、到達です)、というふうに、矛盾を、幻想を、あきらめと希望をなんとか胸のうちに同居させること(または1万分の1秒単位でスイッチさせ続けること)。それがちゃんとうまくできるようになれば、ぼくはぼくの目指しているものを書けるようになるような気がする。