すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

面白かったので紹介するのであって、ただくねくねしたいのではない(まぁそれもあるけど)

弁償するとき目が光る : わたしは今、他人に飢えている

随分長く、他人と接していない。もう一年半以上、接していない。まったく接していないわけではないが、ほとんど接していない。少し前まで中国語教室に通っていたので(いつのまにか過去形)一応は週一で他人と接していたといえばいたが、終わったら速攻で帰宅し、イベントも参加拒否していたので、休憩時間に喫煙所でクラスメートの喫煙者と交わす会話だけが、唯一といっていい他人との会話らしい会話だった。行かなくなったのもイベントがやたらと多く、いつも非参加だと参加を強要されたり(なので一度だけ参加した)毎回しつこくその勧誘を受けたりするのが苦痛だったというのが大きい。わたしはただ中国語が習いたかっただけなので、休日に他のクラスの生徒や同じクラスの生徒と交流をするのはめんどうくさいだけだった。大勢でわいわいやるのがもともと好きではないのだ。


あー、こんな人いるんだー、と思った(自分の他にも)。しょうがないなーと思った(棚に上げて)。釣られたのでコメントしてきましたよ。自分の場合は他人と一緒でも楽しいのだけど(もちろん、楽しくないことも多い)、支払うコストを考えると「ひとりでも別にいいか」と思ってしまう感じ。ただこれは、言葉にしてしまうから違うように見えるだけで、実際は感じ方には大差ないのではないか、という気もする。

ここは違う、と思ったのは過去に関する部分。自分はどうも、過去を覚えていない。幼稚園の時の自分の映像なんて主観視点でも客観視点でも存在しないし、小中学校だってわずかなシーンしかないし、再生してもそこに思考や感情は伴わない。たぶん記憶ってのは時々再生してあげないとどんどん劣化するんじゃないかと思う。そして、執着がないのか、再生をやらないからだな。いま覚えていること以外は二度と思い出さなくても別に構わない。というか生活に不都合がないだけの記憶が残れば充分だと思う。

つーか、記憶というのは「その場にいない」と残らないものなんですよね。いま、心がそこにない、「上の空」だと記憶は残らない。考え事をしながら何かをしても「何かをした」という文字にできる記憶しか残らない。本を読んでいると「本を読んでいた」というイベントの記憶しか残らない(本の内容は別)。音楽を聴いていると「音楽を聴いていた」という記憶だけが残る。「音楽の記憶」ってのは、単にその曲を脳内で再生することに過ぎない。ということに子供でなくなった頃に気づいた。おそらく子供の頃の自分は「上の空」の時間がながかったのだろう。

エントリの最後の部分の感覚はすごいわかる。しかしもはや自分は他人の時間の流れに合わせるのが苦痛にさえなっているので(度が過ぎて、時間の拘束を受ける映画やTVも見れなくなってしまった)、人と接したい、しかもこっちの勝手な都合で!という欲望を満たすためにメイドリフレに通っていたのだと思う。それぐらいで調度良い。人さまの時間をお金を払って買うのです。っていうかこんな人に会ってもらうんだから金ぐらい払わないと申し訳ないよなぁ、と思っていたのだけど。