すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

罪悪感について(途中)

例えば、私が私しかいない状況で、「この子だけでも今助けられるじゃないか!」と思うとしたら、それはその子を助けたい、という気持ちよりは、見捨てたことで罪悪感を感じ続けたくないからなのだろうと思う。あくまでも私にとって、だけど、そこはきっと永遠に覆されない偽善なんだろうなと思う。そういう意味で、私はもしかしたら、神(のようなもの)を信じているのかもしれない。


ichinicsさんがノッてきてくれたので、「罪悪感」について考えてみました。でもまだ途中なのですけど。

5日のエントリで、ぼくは

「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」というのと「自分は良い人間」というのと、この2つの認識は両立できないので、後者を捨てることにしたのです。

と書きました。で、この2つの認識の両立を可能ならしめるもの、それこそが罪悪感であるということに思い至りました。「自分は善人である」という認識の光が、「しかし何もしなかった」(または、「充分にはやれなかった」)という事実を照らし出す。その時、そこに生じる影が、罪悪感なのです。そのどちらが欠けても、罪悪感は生じない。

たとえば悪人であれば、そもそも悪を為したことに反省などしないだろうから、罪悪感のあろうはずもない。それに、自分で納得いくほど充分に行動ができているのなら、やはり罪悪感は起きえないのではないか。ぼくがichinicsさんを酷く傷付けてしまったとします。そのときぼくは、なぜ過ちが生じてしまったのだろうか、どうしたら赦してもらえるだろうか、そういうことを必死で考え、行動し、ゆっくり罪悪感にひたっている暇などはないのではないかと思う。

だから、そこに罪悪感があるとき、自分が罪悪感を感じているときには、「自分はよい人間である」という認識と、「行動するべき場面で、しないことを選択した」という事実との両方が、必ずあるはずです。たとえばブログに書かれる「TVを見て、かわいそうだと思った。自分も何かしなければと思った」というようなエントリ。たとえば「わたしがコメント・トラックバックにレスをしない理由」というエントリ。これらは罪悪感が書かせているもののはず。


とはいえ自分もなにかに罪悪感を感じてしまうことはよくある。「自分は悪い人間である」と口では言いつつも、内部ではそうではないはずという認識を捨て切れてはいないんですね。いや、そんなの無理かもしれない。自分を完全に悪人と思い込むなんてことは(というか、悪人はそんなこと考えもしないのではないか?)。けれど、「自分は良い人間」なんて認識は、偽りの光ですよね。だって自分から「私は善人です」なんて言われても、そうですかと受け入れられるわけはない。そんなの、周囲の人間が決めることでしょう。

偽りの光が不正を暴き出すこと、それが罪悪感なのだ。ということで、「罪悪感を感じることは悪いことだ」というのが、今のところのぼくの考えです。もうちょっと考察が深まったら続きを書く予定。